どうして、どうして。
熊吾郎はひどく打ちひしがれて、両手――今は前足――で顔を覆いながら森の中を走っていた。
蜂蜜を口にしてしまえば、ヒグマになってしまうという事は分かっていた。
だから、おやつも蜂蜜入りでないものを選んで準備してきたのに。
しかも仕組まれたイタズラとはいえ、人に見られてしまった。
大袈裟かも知れないけれど、熊吾郎にとってはこの世の終わりのような気分だった。
山でゆっくり過ごす事も出来ないのかと悲しみに暮れる彼は、進む先に霧が立ち込めている事も気にせずその中に突っ込んでいく。
「また迷子になってしまったのか、俺は……」
霧の中、熊の毛皮のようなものを被った邪衣 士(やごろも つかさ)はさまよっていた。
この山で迷ったのは何度目か。
(しかもここは、以前熊に出会った場所な気がするな……)
熊に遭ったのか、遭っていないのか……数メートル先の景色もおぼつかない霧の景色を見ていると、なんとなく士の意識ももうろうとしてくるようだ。
でも、本来なら九夜山には熊はいる筈のない生き物なのだ。
フツウであれば。
だとしたら、以前彼が遭ったという熊は一体何者だったのだろう……。
とりとめもない事を思いながら道なき道を歩き続けていると、ガサガサと茂みを掻き分ける音が次第に近付いて来た。
音や雰囲気からして、かなり大柄な人物のようだ。
と思ったら、霧を裂いてヒグマが飛び出してきた。
「…………」
「……うわあぁ!?」
ヒグマも士の姿に気付いて叫び声を上げた。
人間の声で。
「ご、ごめんなさいぃ、これは……そう、夢! 夢の中の出来事なんですぅ!」
ヒグマは何故か必死に謝って弁解し、そのままほぼ直角にターンして別方向の茂みに消えてしまった。
「…………」
これは夢なのか現実なのか。
士は何を信じて良いやら分からず、しばし立ち尽くした。
しかし、安息はまだ彼にも訪れないらしい。
「熊はどこじゃぁああああ!!」
今度は何か火花を散らすものを手にした、ちっこい人影がこちらに向かって走って来る。
鈴でも着けているのか、ゴロンゴロンと音をさせながら。
霧のせいで間近になってから見えた相手は、ロケット花火を持った男の子のような少女だった。
少女はざざっと地面を踏みしめて士の前に立ち止まると、しゅるしゅると火を噴く花火をそのままに彼を睨みつけた。
「待っておったぞ熊ぁ!」
「……は?」
呆気に取られた士を意に介さず、少女は花火を構えた。
「……儂の最終奥義である『笛花火乱れ撃ち』喰らうが良いわぁ!」
「ちょ、ちょっと待て、俺は熊じゃ……うわっ!?」
「問答無用じゃあっ、大人しく儂の笛花火の餌食になれぇい!!」
熊の毛皮を被っていた事が災いしてか、士は少女が勘違いに気付くまで、しばらく追い掛け回されるハメになった。
もぐもぐ、はぐはぐ。
「あいや申し訳なかった。儂とした事が、てっきり貴様を熊と思うてしまってのう」
謝りながらも、少女は色々な菓子パンを食べ続けてはお茶のペットボトルを傾けた。
ごっくん。
士はといえば、彼女に分けて貰った菓子パンを眺め……ちょっと焦げてしまった毛皮を眺め、微妙に消沈気味だ。
「儂は1年1組の大田原 いいな(おおたわら いいな)じゃ! かようななりでも、高校生じゃ、新入生じゃぞ、丁重に扱うが良いわ! うわ~っはっはっは!!」
仰け反って高笑いしたいいなは、その拍子に口の中にあったパンが喉に入ったのかむせてしまった。
仕方なしに、士は背をさすってやる。
「か、かたじけないのぅ……ごほっ」
(俺も1年生なんだけどな……)
と心の中でボヤきつつ。
夢を見た。
ぼんやりと明るい、白い風景の中で、長い黒髪の少女が歌っていた。
淡い光の 舞い散る下で 願いを込めた ひとひら捕らえ
叶え叶えと おさなごはしゃぐ
紅い雫の 零れる先は 願いを阻む 赤色の枷
治れ治れと 我が血に願う
妙なる声が、優しく響く。
ぽたり。
何か水滴のようなものが、鈍い痛みを感じていた場所に落ちた。
――痛みが、引いていく。
セルゲイはゆっくりと瞼を開いた。
白い霧が眩しくて、細めた目を何度も瞬かせる。
ぽたり。
また別の場所に滴が落ちて、痛みが薄れていく。
視界にちらちらと映っていた人影に、ようやく焦点が合った。
少女の大きな青い瞳が、自分を見下ろして淡い笑みを浮かべる。
その手には安全ピン、もう片方の手の指先から赤い筋が流れていた。
「自分を、傷付けて……?」
セルゲイが掠れたような声で呟くと、少女――アリーセは目を細めた。
自分が横たわっていたのは、小さな崖の下だった。
ところどころ痛む部分はあるけれど、掠り傷程度だ。
他は彼女が治してくれたのだろう。
アリーセはそれを確認すると、ほっとしたように笑みを深くした。
「歩けるかしら? 戻りましょう、一緒に」
いつの間にか、熊だった姿も人間のそれに戻っている。
セルゲイはむくりと起き上がると、アリーセと一緒に歩き出した。
次第に霧が晴れ始めている森の中を。
「ううぅ……どうしましょうぅ」
熊吾郎は茂みの影で頭を抱えていた。
がむしゃらに霧の中を走って来てしまったので、今自分が何処にいるのか分からなくなってしまったのだ。
しかも、何人かにヒグマの姿を目撃されてしまった。
とりあえず、今の彼に出来る事といったら元の姿に戻るのを待つだけなのだけれど。
「戻ったら、気をつけるとするですよぅ……」
不慮の事故は気を付けようがない気もするけれど、そう固く心に決める熊吾郎であった。
「……ん?」
微かに歌声が聞こえる。
一度は気のせいかと思ったけれど、その声は段々近付いてきていた。
森で出会った熊にまつわる有名な歌を歌う、場違いなほど明るい声。
熊吾郎は身を縮めてやり過ごそうとしながらも、うっかりガサッと茂みを揺らしてしまった。
「誰かいるの?」
「……!」
少女は歌を止めて、熊吾郎のいる茂みに近付いて来る。
万事休す。
しかし、茂みを掻き分けて彼の姿を見た少女は、残念そうにこう言った。
「なぁんだ、熊さんじゃなかったの」
「……へ?」
熊吾郎はぽかんとした後、慌てて自分の姿を確認する。
「も、元に戻ってますぅ」
思いっきり安堵の息を吐く彼を、少女は不思議そうに眺めた。
改めて見れば、ツインテールに抜群のプロポーションの、可愛らしい少女だ。
「どうして熊を探してたのかなぁ?」
熊吾郎が聞いてみると少女、姫神 絵梨菜(ひめがみ えりな)は荷物の中から鮭のおにぎりが入った入れ物を取り出した。
「熊さんといえば、鮭好きでしょー? おにぎり分けてあげて一緒にお昼食べるのー♪」
暢気ににこにこしている絵梨菜を見て、熊吾郎もなんだか心配になった。
「でも、熊さんなかなか見付からないし……霧で迷っちゃったし、お腹空いちゃったし。もう食べちゃおうかなって」
残念そうな顔をしつつ、絵梨菜はそこでお弁当を広げた。
「……えー、熊吾郎君っていうの? 熊さんみたいにおっきいし、面白ーい!」
「あ、あはは……」
おにぎりを食べながら、相手の名前を知った絵梨菜がにぱっと笑うので、熊吾郎も眉を下げて笑う。
「熊さんは見付からなかったけど、熊吾郎君かぁ……。ねえ、折角だから一緒におやつ食べない? 本当は熊さんにあげるつもりだったんだけど」
「……えっ?」
この少女、ある意味熊殺しかも知れない。
何処をどう歩いたか分からないけれど、士といいなはなんとか霧を逃れて視界の晴れた場所に辿り着いた。
「おほん、古来より熊は人の気配及び大きな音が苦手での。大きな音の鳴る鈴、人が話している声等を聞くと、普通は近寄ってこないはずなのじゃ! じゃから、登山の必需品として斯様な鈴が売られておるのじゃよ!」
カウベルの形をした鈴を鳴らして見せるいいなの薀蓄を聞きつつ、どうやってトレッキングの一行と合流しようかと士が考えていた時だった。
「なんで俺がこんな事……おっ?」
気絶した武蔵を背負うハメになった団十郎が、近くの茂みから姿を現した。
けれど前方に士達の姿を見るや、はっきりしない顔に浮かんでいた表情を明るくして寄って行く。
「お前らも熊探しか?」
団十郎は早速、熊を退散させた事を自慢に掛かろうとしたのだが。
「探すつもりはなかったが……ヒグマなら見掛けたぞ」
「は? ヒグマ?」
士の思わぬ言葉に、毒気を抜かれたように聞き返してしまった。
自分達が遭遇したのは、どちらかというとグリズリーのような巨大な……。
「おいおい、どうなってるんだよこの山……」
奇しくも、別の場所で別の人物が言っていたような呟きをもらす団十郎。
そこへ、またも茂みを掻き分けて近付いてくるような音が聞こえてきた。
ザッザッザッザ。
足取りは重々しく規則正しい。
ザッザッザッザ。
3人に緊張が走る。
ザッザッザザッ。
思わず目を見開いて眺めてしまう。
茂みから出てきたのは、大きな体躯に籠と小柄な少女を背負った、赤い熊のような――
「待て、熊は赤くないだろ」
団十郎は思わず小声で突っ込んだ。
「うん? なんだお前ら……トレッキングの連中か?」
思わぬところで出くわしたとばかりに小さな目を丸くしたのは、予想通りの吉田 熊吉(よしだ くまきち)先生だった。
「先生こそ、どうしたんですか?」
士が密かに汗をかきながら聞いてみると、吉田先生は「ああ」と笑って自分の背負っている籠を振り返った。
「ここいらの近くの地主さんに、たまに食材を分けて貰っててなぁ。もうちょっと下の方なんだが」
そう言って、今度は反対側に背負った少女の方を見遣る。
「そうしたら、迷子になってたこいつを見つけたんだ。そういや今日は新入生のトレッキングだったなぁと思い出して、それなら送るにゃ麓よりこっちのが近いからな!」
「うぅん……熊さん……」
吉田先生の背中で眠っている上穗木 千鶴(かみほぎ ちづる)は、むにゃむにゃと幸せそうに寝言を呟いた。
「……って事は」
しばしぽかんとしていた3人だったが、士ははっとした。
「先生、桜の群生地の場所、分かるんですか」
「おうよ、こっからならすぐだぜ!」
満面の笑みを浮かべる吉田先生の言葉に、一同脱力した。
随分苦労してここまで歩いて来た気がするのに、もしかしたら同じ場所をぐるぐる歩いていただけだったのだろうか。
「はっはっは、まあ元気出せよお前ら。そうだ、今日は自然薯が沢山取れたからお裾分けしてやろうな!」
吉田先生はひとりに一本ずつ土が付いたままの自然薯を配った。
気絶している武蔵の分まで持たされた団十郎は、背後から聞こえてきたイビキに半目になった。
(こいつ……寝てて良かったのか悪かったのか)
天敵の吉田先生が目の前にいると知ったら、大騒ぎだったかも知れない。
「これで明日はとろろちゃんこだ、精がつくぞぉ。お前らも食いに来いよな! はっはっはっは!」
生徒達の思惑はつゆ知らず? 吉田先生は高らかに笑った。
吉田先生によって送り届けられた4人は、
「まあまあ、無事で良かったじゃないですか。お前ら良かったな、吉田先生に土産まで貰って。羨ましいぞ!」
と高野先生に笑って取りなされ、桐島先生から軽くお小言を食らっただけで済んだ。
結局、団十郎達は『熊殺し』ではなく『山で迷って熊吉先生に助けられた』という(特に武蔵にとっては不名誉な)話で他の生徒達に知られる事になる。
※武蔵が木に塗った蜂蜜は、後で山の生き物達が美味しく頂きました。
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