この春、ボクは神奈川県の寝子島にやってきた。
実家を離れて、自由な校風で知られる寝子島高校に入学するためだ。
引っ込み思案で、勉強も運動も平均以下の冴えないボクにしては思い切った決断で、何がボクをそうさせたのかはわからないけど、子どもの頃に爺ちゃんに聞いたこの話が関係あるのかもしれない。
寝子島には古くからある言い伝え“落神伝説”というものがあった――
昔々、寝子島に神様が落ちてきた。
それ以来、地は揺れ、山は噴火し、竜巻が起こり、飢饉に見舞われた。さらには謎の妖怪や怪物まで現れて、寝子島も世の中も混沌に陥った。
神様は山の中にこもって何もしなかったので、島民は助けてほしいと懇願しに行った。でも、神様が島民の願いを叶えることはなかった。
あきらめた1人の島民は、逆に尋ねてみた。神様の願いは何かと。
「……海を見たい」
島民は神様を担いで山を下りた。陽の光を浴びてキラキラと輝く海を、見せてやった。
すると、この世の混沌はおさまって元に戻り、神様は去っていったというのだ。
この神様は“らっかみ”と呼ばれて、今でも寝子島の一部では親しまれている。
爺ちゃんはいつも言っていた。
「願いは叶えてもらうものじゃない、叶えてあげるものだ」
そんな説教に興味のないボクは、このらっかみのように海を見たかっただけかもしれない。
寝子島での生活に何を求めていたのか、自分でもよくわかってはいなかった。入学式のこの日までは……。
寝子島高校の入学式には、一風変わった伝統“新入生の誓い”があった。
受け付けで黄色いリボンを渡された生徒が、その場に回ってきたマイクで意気込みや希望を語っていくというもので、恐ろしい伝統だと思う。
「高校生活の3年間を、穏やかで平和に過ごすことを誓います」
「ここでしか見つけられない何かを、この3年間で見つけることが目標!」
「この学び舎にて、華麗に、優雅に、そして美しく、学んでいきます」
みんな、堂々としていた。ボクと同じ新入生とは思えない程に、眩しく輝いていた。
黄色いリボンを付けたボクは、全身が熱くなるのを感じた。緊張して何も聞こえなくなった。腹が痛くなった。目の前が真っ白になった。
ボクは、緊張から逃げるように講堂を出てしまった。
外した黄色いリボンは春の風に乗って、ふらふらと舞い上がった。
澄み渡った青空、風にそよぐ緑、校舎の向こうには桃色の桜並木……色鮮やかな景色がボクを笑っているように思えた。
自分のダメさ加減に呆れながら、大きな木にもたれかかって講堂をじっと見つめた。
講堂の正面は高くのびていて、時計塔のようになっていた。時計の針を見ながら、あと何分したら戻っても大丈夫かと考えていた、そのとき――
空から、少女が落ちてきた。
少女は時計塔に激突して、講堂の屋根の方に消えていった。
どこから落ちて来たのだろうか……。
校舎の屋上から飛んでも届く距離ではないし、衝撃の大きさが釣り合わない。だからといって、他に高い建物があるわけでもない。空には飛行機もヘリコプターも飛行船も飛んでいった様子はない。
何がなんだかわからなかったけど、これはもう入学式どころではないと思った。
すぐに消防車や警察がやってきて、テレビドラマみたいに立入禁止の黄色いテープが貼られていくに違いない。
ボクは証言しなくちゃいけない。質問に答えなくちゃいけない。
「少女はどういう角度で落ちて来ましたか?」
「りょ、両手を広げて、あ、頭から……」
質問はもっと飛んでくるかもしれない。
「少女の顔は見えましたか?」
「み、見え――」
大切なことを思い出した。
そう、ほんの一瞬のことではあったけど、ボクの脳裏にはしっかり焼き付いている。
不思議なことに、少女はあのとき、とても楽しそうだった。表情まではっきり見えたわけではないけど、でもやっぱりあれは……笑顔だったと思う。
――大事なもんバラまきやがって
誰かが、ため息混じりにつぶやいた。
講堂から逃げ出したのはボクだけじゃなかったのか、と声の方を見て、首をかしげた。誰もいなかった。
そこには、一匹の猫が立っているだけだった。
背中が灰色で腹が白い少しやせた猫が、長いしっぽをゆらゆらと揺らしながらボクを見ていた。
「ね、猫……?」
ボクは思わずつぶやいた。
――聞こえたのか
猫が喋った!
いや、喋るというより、猫の意思をボクの心に直接植え付けてくるようだった。夢のような夢ではないような、不思議な感覚……。
――もれいびか
「え? なんて?」
次の瞬間、猫は講堂に駆けていった。
どうしてか、ボクはこの猫についていかなくちゃいけないと思った。わけもわからず、全速力で追いかけた。
時刻は11時14分、ボクの入学式は再び始まった。
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