「あの……」
その女性は、多くの生徒の注目を浴びて少し戸惑ったように口を開く。
姿を現したのは、長い黒髪を垂らし、淡い桜の模様が入った白い着物を着て草鞋を履いた女性だった。
年の頃は二十歳になるかならないかくらいの、いかにも大和撫子といった雰囲気の女性だ。
彼女の後ろには、着物の袖を掴んでべそを掻いている佐奈の姿がある。
「佐奈なん!」
カナエに呼ばれると、佐奈は「るー」と泣きながら小走りでみんなの方に駆けて来る。
「るー、あのお姉さんに助けて貰ったッスー」
「そうか、とにかく無事で良かった。あーあ、鼻水出てるぞ」
ほっとした顔で笑ったカナエは、近くの女子が出してくれたティッシュを貰って、涙や色々なものでぐしょぐしょの佐奈の顔を拭いてやる。
「ところであの人は」
と聞いている間に、刀がずんずんと女性に詰め寄っていた。
刀ははしっと女性の白い手を取る。
「あなたが桜の精なんだな!?」
「……は、はい?」
興奮気味に間近で見詰めてくる刀に、女性はちょっと上半身を引きながら目を瞬かせた。
「えーっ!? そうなの?」
美咲紀も前のめりになって声を上げる。
「私、桜ちゃんとお友達になりに来たの! お友達になって下さい!」
「俺も桜の精の友達になろうと思って……」
クールに見えた刀の突拍子もない言動と、ざわざわとし掛けた生徒達や懸命な美咲紀の様子を見て、女性は小さくふき出した。
「私は、この近くに住んでいる者です。桜……と仰いますと、皆さん樹齢300年といわれている桜を見にいらしたのですか?」
よろしければご案内しますよ、と微笑む彼女に刀の手から力が抜けていく。
「ち、違ったのか……すみません、早とちりして」
「いいえ」
刀の落胆する姿を見ながら、何かツボにはまってしまったのか女性は袖で隠した口からくすくすと笑い声を漏らしている。
「お姉さん綺麗だから、私もてっきり……は、恥ずかし~」
真っ赤になった頬を両手で押さえて、美咲紀は首を振ってポニーテールを揺らした。
まだ霧は完全に晴れてはおらず、もやのように漂っているけれど、視界は大分晴れてきていた。
頭上から降り注ぐ光が霧に反射して拡散しているのか、霞んで見える桜の花々が白っぽく輝いているように見える。
晴れた景色の中見る桜とはまた違った、神秘的な表情を湛えていた。
生徒達一行の前を、着物の女性が歩いて行く。
「この辺りは、山に慣れている人でも三度は迷う……と、昔から言われていたそうです。特に霧の出ている日には」
「三度も……」
後に付いてくる生徒達の足並みを確かめながら進んでいく女性の説明に、晴太は思わず呟いた。
かつて、田舎の爺さんにあまり山の深いところには入るなと言い含められていた事を思い出す。
人の手が入らない山奥には、昔から魔物と称されるような恐ろしい場所が幾つもあったのだろう。
九夜山くらいの小さな山でもこんな現象が起きてしまうのだったら、自分の故郷の山々にはどんな秘密が隠されていたのか、思いは果てない。
「でも散々迷った、大変な目に遭ったという話はあっても、ここで大きな事故に遭ったり亡くなった、という方はいらっしゃらないのだそうですよ」
不思議ですね、と微笑んだ女性の足取りは、何枚も着込んでいる着物姿とは思えないくらい軽い。
綺麗に裾を捌いてはひょいひょいと地面に突き出た凹凸を的確に捉えていく姿は、相当山慣れしているのだろうと感じさせた。
「俺が読んだ文献とかはデタラメだったって事か……」
その桜を見つけた者は二度と帰って来ない、とか書いてあった本を思い出して、秋人はひとりごちた。
どうやら噂を面白おかしく書き立てたか、怪談か何かのようなエピソードだったのだろう。
「さあ、着きましたよ」
女性が少し脇によけると、少し開けた場所が見えた。
そこは、磁石が狂ったら幻の桜の近くだと何人かの生徒が思っていた通り、みんなが集まっていた場所からそう離れてはいなかった。
あまり地面は平坦ではないけれど、ちょっとした広場のような場所のほぼ真ん中に、背の高さこそ周囲の桜とはそんなに変わらないけれど、太い太い立派な幹から悠々と枝を伸ばし、惜しげもなく花を咲かせている桜の木が佇んでいた。
幹には白い注連縄が巻かれている。
「わあ……」
誰ともなく、感嘆の溜息が漏れた。
薄い霧がフィルターのようになって、ちらちらと舞い落ちる花弁もぼんやりと光を帯びているように見える。
眩しげに眠たそうな目を細め、秋人は大きな桜の木を眺めた。
「これが……幻の桜……。なるほど、取り憑かれるほど綺麗だな」
『すごい……!』
感動でしばし口を開きっ放しだった海も、スケッチブックに素直な感想を書く。
(よもぎのお餅、お供えしたご利益があったかなぁ……)
瑠璃は落神神社に置いてきたお供えを思い出し、心の中で神社の神様にお礼を言った。
「ついに、ついに幻の桜に辿り着きました……!」
静かに佇んでいる桜を、そしてそれを眺めているみんなの姿をカメラに収めながら、感極まったように言葉を吹き込む和の横で、祭もスマートフォンのカメラで桜を撮った。
「……わっ」
「足許に気を付けて下さいね」
大きな桜に向かって駆け出した美咲紀は、地面の出っ張りにつまづいてよろめきながら近付いていく。
後を追う他の生徒達を見守るように、女性はゆっくりと後ろを付いて来た。
木の根元には、人ひとりが蹲るとすっぽり入れそうな大きなウロがあった。
美咲紀はうっかり落ちてしまわないように気を付けながら、太い根っこに登ってぎゅっと幹に抱きついた。
「やっと会えたー! これからヨロシクね」
女の子ひとりの腕では到底抱えきれない太さの幹は、硬くてゴツゴツしていて、所々に苔が生えている。
静かに抱擁を受け止めた幹の表面の感触は、ひんやりしっとりしていた。
みんなが木の下まで辿り着くと、今度は願掛けをしたい生徒達が前に出た。
特に願いのない生徒も、手を合わせて目を閉じたりしている。
(試合で緊張しないようになりたいな……)
剣道の試合で、いつも緊張してしまってなかなか良い結果を出せない佳奈はそう願う。
(身長170cm以上の女子との出会いに恵まれますように!!)
自らが創立した女子ボディービル部……もとい『寝子島高校フィジカルフィットネスクラブ』の部員を増強する為に、カナエは一心不乱に祈った。
(この島で3年間、友達と楽しい学校生活を送られますように)
友人達との和や、これからの学校生活の事に対して小淋は願う。
友達や人間関係に関するお願いをする生徒は他にもいて。
(あおいちゃんと友達になれますように)
自分は友達だと思っているけれど、彼女はどうだろう? 綾花はそんな事を思いながら、桜に願いを掛けた。
(皆が幸せの笑顔になれたらいいな……)
瑠璃の願いは、みんなの事を思い浮かべながら念じられた。
(全員無事で戻れますように)
櫻の願いはここに至っても、彼女らしいものだ。
「…………………………。よし」
ふわりも何かをお願いしたようだ。
「御剣さんは何をお願いしたの?」
美咲紀は一緒に手を合わせていた刀に聞いてみる。
「これからの学園生活が掛け替えのないものになりますように。それと……この幻の桜と友達になれますように」
後のお願いを聞いて、美咲紀は「私と同じだね」と嬉しそうに笑った。
その話を聞いていた瑠璃は、ほわっと笑う。
「お友達かぁ……この桜の木とお話出来たら、すごく良いのになぁ……」
「そう思って頂けたら、きっとこの桜も喜びます」
彼女達の遣り取りを見守っていた女性も微笑んだ。
「そういえば、不破さんは?」
結構気合を入れて願い事をしていたふわりにも、彼女は聞いてみた。
ふわりはえへへと笑う。
「えーっとねー。全く願い事が思い付かなかったのでぇ、『願い事が授かりますように』ってお願いしましたー♪」
願い終えて桜の木から離れて行こうとしていた面々が、その答えに足を滑らせたり転び掛けたりした。
まだお昼を食べていなかった生徒は、かなり空腹になってきていた。
願掛けが終わると、大まかに桜の下でお弁当を広げる生徒と、少し離れて絵を描いたり桜の木を眺める生徒に分かれる。
「こんなところで皆でお弁当を食べられるなんて、良い思い出になりそうだね」
自らのお弁当を出しながら、車座を組んだ生徒達を眺めて伶都は微笑んだ。
瑠璃もお弁当を広げながらニコニコ笑う。
「とっても嬉しいなぁ……! 浅山さんのお弁当も、美味しそうだね」
『おかずは一般的なものばかりですが、玉子焼きには少しだけ自信があります』
小淋のお弁当は、ハンバーグやポテトサラダなど。本人が伝えたように玉子焼きは形も良く、綺麗な焼き色が付いて美味しそうだ。
おにぎりは色々な具を入れたものを作ってきていた。
和はといえば、予備のメモリーカードやバッテリーなどを準備していた代わりに、理想のお弁当を用意出来なかったらしい。
「うちは星が丘寮のダイニングのランチボックスなんだよう~」
「わーリッチ。私はあまりお料理得意じゃないけど……頑張ったよ!」
美咲紀のお弁当はおにぎりに唐揚げ、ミニハンバーグに人参とサヤエンドウの炒め物ときんぴらごぼう、それにプチトマト。
「俺はおにぎりだけだな」
皆のお弁当を眺めながら刀がおにぎりを取り出すと、ふわりも上機嫌な様子でコンビニで買ったお弁当を出す。
「じゃ~ん、寝坊したのでコンビニ弁当~♪」
そしてしばらくの後。
「……電子レンジがないっ」
誰もがここまで来る前に思い付くだろう事にやっと気付いて、ふわりはガーンと打ちひしがれた。
そんな彼女に小淋が助け舟を出す。
『みんなにも食べて貰えるようにと作って来ましたから、良かったら食べて下さい』
「ほ、ほんとー?」
ふわりの顔がぱぁっと明るくなる。
大きな桜の下でも、おかずを交換したり分け合って、遅めのお弁当タイムは和やかに始まった。
「桜ちゃんにもお裾分けね」
美咲紀は水筒に入れてきたハーブティーを、桜の木の根元に少し撒いた。
「思ってた通り、なかなか描き甲斐がある桜だよなぁ……」
墨汁をつけた水筆を走らせながら、晴太はしみじみ呟いた。
やっぱり硯で墨を摺って描きたいけれど、野外では我慢と思いつつ。
紙の上には一本の筆で書いているとは思えない、桜の水墨画が描かれつつある。
海や四月はスケッチブックに大きな桜のある風景を書き込んでいた、が。
「……は! いけない、涎が」
思わずウトウトしてしまった四月は、慌ててスケッチブックを拭う。
『だいじょうぶ……?』
心配そうな海が、もう一冊のスケッチブックを出して聞いてくる。
「大丈夫平気オッケー! 気合だ気合ー!」
なんだか変なテンションで、四月は荷物の中から出した栄養ドリンクをごっきゅごっきゅと飲み干した。
それから少し経つと、晴太は立派な桜の水墨画を完成させ、海も彼女の感性が生き生きと表現された風景のスケッチを見返して嬉しそうな顔をしていた。
四月はといえば……。
「ねえドッペルさん、さっきの新作、美少年と美青年どっちを受けにするかで迷ってるの。アドバイス聞かせてちょうだい」
何故か自分そっくりの人物と膝を突き合わせて語り合っていた。
さっきまで彼女が「桜の下で出会って恋に落ちた華族の美少年と、結核病みの文学青年の耽美ロマン・大正ロマン……萌えー!」とかブツブツ呟いていたのを海は小耳に挟んでいたけれど、海にとってはなんのこっちゃ。
自らの分身と盛り上がっている四月を、不思議そうに眺めるのだった。
その後は、伶都が桜の花弁舞う木の下で芝居を披露したり、桜の木に贈る歌を瑠璃が歌ったり。
生徒達に混じって、着物の女性も楽しげにそれを眺めていた。
まだうっすらと漂っている霧は、春霞とそう変わらない。
ただ静かに生徒達を見下ろしている桜を眺め、刀はこんな風に訪れる者がいれば、この桜も寂しい思いをしなくて済むだろうと思った。
そして、この場所を地図に記す。
また訪れる事が出来るように……「って、あー!!」
ふと手首を見た刀は素っ頓狂な声を上げた。
なんだなんだと集まってきた生徒達に、彼は緊迫した表情で告げる。
「帰りの集合時間……過ぎてる!」
「「「えーーーー!!?」」」
聞くや否や、みんな慌てて帰り支度を始めた。
あんまり楽しかったから、時間が経つのを忘れていた。
「ご案内させて頂きますね」
食べた後のお弁当や出したゴミなどもきちんと片付け終わった頃には、女性が広場に入ってきた場所に立って待っていた。
「桜ちゃん、また遊びに来るよ!」
桜の木に手を振る美咲紀の背を眺めながら、刀も「また来るよ」と呟いた。
「どうかこの島を見守ってください」
瑠璃も、来た時と変わらない姿でそびえる桜の木に、そっと言葉を掛けてから背を向ける。
「あ……そうだ」
思い出したように呟いて、秋人はカナエににこっと笑い掛けた。
「幻の桜探し、提案してくれてありがとうな、カナエ」
「おう! こっちこそ、協力してくれてありがとうな!」
カナエもニカッと笑い返して、帰途につく生徒達に続いた。
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