●逃げろ鷹取先輩●
我威亜たちの騒動が収まったその隙をめがけ、華麗なる鷹取先輩は胸像への突撃をしかけます。
「翼よ、あれが巴里の灯だ-!」
どこにも翼もパリもありませんが、胸像の輝く頭部を花の都に、それに向かう我が身を飛行機にたとえたものと思われます。暴走しててもロマンティスト、それが鷹取先輩なのです。
錐揉みかけるようにして胸像を襲おうとした彼ですが、
「ぐわわっ! わっわわわ!」
マシンガンに撃たれ、じたばたぴょんぴょんと陸に打ち上げられた魚のように跳ね回りました。もちろん本当のマシンガンに撃たれたわけではありません。撃たれたのはマシンガン並に切れ目なく連投されたチョーク……そう、黒板の友、あのチョークだったのです。
「鷹取先輩……こんなことになって残念です。けれどもう諦めて下さい」
この比類なきチョークの使い手は、普通科一年、赤禿 美雨(あかはげ みう)なのでした。
彼女は、みしりと音を立て地面から鞄を持ちあげると、そこからベルトのようなものを引っ張り出して、ジャラリと音を立て袈裟のように肩にかけました。なんということでしょう。それは弾帯……に似たチョーク入れでした。これぞ美雨の本気の象徴、チョークガンベルトなのです。これをまとった彼女はウォリアーと呼びたくなるようなたたずまいでした。これで当分『弾切れ』はありますまい。
「先輩、これがあたしの奥の手です。まだ落書きをしようとするのなら全力でやります。これを喰らえば蜂の巣とはいかずとも、チョークまみれで粉っぽくなってしまいますよ。……そんな先輩は見たくありません。降参して下さい」
しかしそれを聞いても鷹取先輩は、ウフフと笑うばかりなのです。立ち上がると胸像を背にして彼は言います。
「やりたいならばやるがいいさ! だがそのチョーク、全弾命中はどうみても不可能ッ! とすれば僕の背後の胸像も、蜂の巣ならぬチョークまみれ、赤白黄色粉だらけとなるだろうよ。それもまた、この僕、らくがお仮面がもたらしたミラクルな表現として『あり』だと思うが、どうかな?」
ガーン、と効果音でも響くかと思いきや、さにあらず。
「ではもう一つの奥の手です」
あっさりと引き下がった美雨は今度は自分の鞄を持ちあげ、開けて見せました。ずいぶん重そうな鞄でしたがその理由が判明します。彼女の鞄のなかには、木製のこけしがぎっしりと詰まっていたのです。
「チョークのかわりにこれを投げます。あたし、こけし投げてもすごいんです!」
鷹取先輩の頬を、汗が一滴、すっと流れて落ちました。
「なんという……おのれ!」
一瞬、自棄になったかと思った彼ですが、
「ここは一旦退却だ! だが覚えておきたまえ、いつの日か僕は必ず、あの胸像を僕色に染めてみせよう! このらくがお仮面の名にかけて!」
捨て台詞を吐くや、牛若丸もかくやという跳躍を、ひらり見せて中庭から飛び出しました。どこへ逃げる気かはわかりませんが、とにかく、逃げます。
追わんとしたものの美雨は間に合わず、わずかにこけし一つが、先輩の肩をかすめるにとどまりました。茂みに消える先輩は、悪漢丸出しの哄笑を響かせています。
「俺の能力の出番だな」
この瞬間を予期し、待っていた者がいました。
それは誰かと尋ねれば、市橋 誉(いちはし ほまれ)であると答えましょう。
彼はピアニスト、それもジャズ畑のテクニシャンです。情熱的に奏でろと言われれば、いくらでも独自色を出すことができ、理論的に弾いてと求められれば、メトロノーム要らずの精確な演奏ができます。ピアノと向き合い、ピアノを愛する彼は、絵として描いただけの鍵盤からでも、しっかり調律したかのような美しい音色を鳴らすことのできる『ろっこん』、その名も『奏でるもの』を使いこなすことができました。
誉は、わざわざ動く必要がありません。ただ中庭のベンチに座って、好きな譜面を読んでいます。それだけでいいのです。すでに周辺には、あちこち巧妙に彼の『鍵盤』が描かれているのですから。
鷹取先輩は追跡者をまくつもりで逃げたのでしょうが、彼の足はつぎつぎと絵の鍵盤を踏み、盛大なスケルツォを唄うはめになりました。
「くっ……音が! これは……このままでは……っ」
逃走経路を北にとった鷹取先輩の目の前に、奇妙な光景が飛び込んで来ました。彼は驚いて足を止めます。
真っ赤なフェルトが畳二畳分ほど敷かれ、その上に茶釜、茶器などが並び和服の少女が正座しているのです。大きな番傘が立てかけられ、直射日光を防いでいました。
「ええと……仮入部用のイベントとは違いますぇ」
と言いつつも、集まったギャラリーに茶を点てて進呈するのは、前髪を綺麗に切り揃えた一口 楠葉(いもあらい くずは)でした。
形のいい目で楠葉は鷹取先輩を見上げます。
「おや? そこのお兄はん♪ 風流を味おうていきません? そう、あんさんどす」
「悪いがそんな時間はなくてね」
いざさらば、とその横をすり抜けようとした彼は、
「取った!」
足首をいきなり楠葉につかまれ、ぎょっとしたのもつかの間、着物姿のまま彼女が、するりとその左脚に巻き付いてくるのを知りました。
着物が乱れることなど躊躇しません。楠葉は彼のアキレス腱をあたりを腕で抱え、自分の手首の骨がそこに当たるようにして、体ごと反り返って極(き)めたのです……脱出困難のサブミッション、これぞ王道のアキレス腱固めを!
たちまち来襲その痛み! おお、肉が裂けるような!
「ぎゃおええええええ!」
鷹取先輩は悲鳴を上げました。わかめ状の髪が逆立ちます。解こうと暴れるも、暴れれば暴れるほど絡みついてくるのがこの技の恐ろしさ、ますます深みにはまるばかりです。このままじゃ脚がちぎれる――それは錯覚でしょうか。
ここで彼が幸運だったのは、無我夢中でバシバシと二回、真っ赤なリングもといフェルトを叩いたことです。
はっ、と楠葉は反射的に技を解きました。相手がギブアップと知れば技を解く。これが格闘家としてのマナーです。
「うわーん、なんてひどいことをするんだァーーー!」
途端、ぴょんとウサギのように跳躍して、鷹取先輩は半泣きで北校舎に駈け込み姿をくらましました。
「あっ……!」
しまった、と楠葉は追おうとしましたが、このやりとりを見て興奮したのか、ギャラリーが彼女に群がります。しかもその少なくない者が、目をキラキラさせて、
「俺にも! 俺にも関節技を決めてくれっ!」
「がっちりホールドしてくださーい!」
などとお願いしはじめたのです。
「はわ、さすが音に聞く寝子島高校……変わった人がようさんおるもんどすなぁ」
仕方なく……というかどこか嬉しげに、楠葉は彼らに振る舞うことにしました。関節技を。
鎌固め! コルバタ! 弓矢固め!
もう、らくがお仮面を捕らえるという目的は忘れてしまって、美しくも痛い技の数々を、屈強な男子学生ばかりを選んでかけていきます。
きしむ間接の音。絶叫する筋肉の音。
北校舎に飛び込んだ鷹取先輩は、そこで見知った姿に遭遇しました。
「白神……先輩……」
狂気の沙汰に身悶えするピエロのようだった彼が、瞬間的にですが冷静な顔立ちに服しました。
彼女は高校三年生、白神 沙希実(しらかみ さきみ)です。表紙に絵も文字も、それどころか色すらない白い本を、胸に抱くようにして立っています。まるで彼を待っていたかのようです。いや、待っていたのでしょう。
楚々とした容姿の沙希実ですが、美人の多いこの学校では決して目立つほうではありません。グラビアで踊るゴージャスなアイドルではなく、日本画の中にたたずみ微笑む麗人……そんな印象のある少女なのです。大人びたところも魅力で、実は鷹取洋二のように、彼女の隠れファンは何人もいるといいます。(そのことに関して、沙希実自身はまるで無自覚なのですが)
「白神先輩、実は」
追っ手が迫ることを意識しつつも、鷹取洋二は言いかけました。
「聞いたわ。鷹取君」
沙希実はささやくように、まるでこの世界が、彼と彼女の二人きりになったかのように告げます。
「鷹取君、最初に聞かせて。これで懲りたでしょう……もう、落書きをするのはやめる?」
伏せられた彼女の長い睫毛は、「やめると言って」と彼に語りかけていました。
ですが彼は首を振ったのです。泣くような顔をして笑いました。
「駄目だよ……僕は、芸術に生きなければならない。これまで自覚がなかったとはいえ、らくがお仮面としての自分を抱きしめてやらなければならない。やめられないのさ……もう」
それを聞くと沙希実は、手にした白表紙の本を開きました。
「教えて」
一言だけ呟いて、自分だけに見えるように中身に目を落とします。
鈍い光とともに彼女の『ろっこん』が発動しました。鷹取洋二もこれを目にするのは初めてです。先見の書(せんけんのしょ)……彼女は自分の能力をそう呼んでいます。
「この本はね、近くにいる私が選んだ人について、その人にごく近いうちに起こる未来を見せてくれるの。未来予知……いや、超近未来予知ね」
そして沙希実は言ったのです。
「あなたは逃げ延びる。この校舎の屋上に向かえば……」
「僕を助けてくれるのか……!」
ありがとう先輩、と告げるや鷹取洋二は、全力で階段を駆けていくのでした。
「……」
沙希実は彼の背を見送ると小さく溜息しました。
本のなかには、ある情景が写っていました。屋上に鷹取洋二が追いつめられている情景が。
嘘も方便、彼の反省を促すため偽の予言をしたのです。
それでも……。
未来が読めるという話も、その予言も、彼が寸毫も疑わなかったことは、沙希実の胸を少し、痛めました。
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