こちらは展示物の紹介トピックになります。
恐れ入りますが、管理人以外は書きこまないでください。
言い出したのは靴屋の跡継ぎ。
麓の歌の主である。
数人の友人が協力し、店の在庫まで持ち出して、気球を一つ拵えた。
準備に7日を要したが、歌は一度も降って来なかった。
若者達は夜の訪れと共に崖下に集い、バーナーに火を点ける。
靴屋の跡継ぎが籠に乗り込み、膨らんだ気球と、その先を見上げる。
ゆっくり籠が、上昇を始めた。
一度上がれば風任せ、という訳にはいかない。
流れる気球を二本の鉤で、断崖から一定の距離に保つ。
離れ過ぎればそのまま流され、近付き過ぎれば気球が岩に引っ掛かる。
長い鉤を必死に操り、若者は上昇していった。
なんとか頂上に辿り着き、縄を塔の先端に引っ掛けると、漸く気球が安定した。
深く深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
胸に手を当てると、若者は歌い出した。
呼び掛ける歌を。
石壁の窓が、幾つか開け放たれた。
驚くシスター達が、声も出せずに若者を見やる。
その中に一人だけ、場にそぐわぬ身なりの娘が、深緑の瞳を見開いていた。
歌は娘に想いを投げ掛け、縄が風を切る音と共に終わった。
灯に煌めく金髪を手櫛で整え、数回息をつくと娘は笑顔を見せ、歌を返した。
数節の歌は若者の胸を撃ち抜き、再び村に降り注いでいった。
娘の側で見ぬふりをしていたシスターが、頃合いとばかりに娘の肩に手を添える。
娘も大人しく従って、最後にもう一度笑顔を見せると、窓の向こうに消えて行った。
その後も大変だった。
年配のシスターに怒鳴られながら、ソロソロと気球を降ろしていったのだが、途中でバランスを崩し、気球が半分焦げてしまった。
幸い、落ちるというには緩い速度で地上に到達し、二日寝込む程度で済んだという。
娘とはそれっきり。
翌日、豪奢な馬車が、村を通り過ぎて行ったそうだ。
「なんとも愚かな話です」
他にいくつも手はあったでしょうに、と館主は頭を振る。
「ですが、私はこの様な話が大好きなのですよ」
額に手を当てたまま、館主は笑った。
「逸話は、只の気球に価値を与えます。
その後出版された北欧の王女の書に、気球の話が書かれていればなおさら、です」
愉快そうな館主を見て、アナタはコレクターという人種の事を、少し理解し始めていた。
雲を突く断崖の頂上に立てられた修道院。
俗世との繋がりは、吊り橋が一つ。
その対岸も相当な苦労をして登る、急な山である。
切り取られた地で暮らすのは神に仕える女達であり、そこには時折、婚礼前の身分の高い娘が訪れ、数週間を過ごす事があった。
また誰かが滞在しているのであろう。
星明かりに照らされた麓の村に、聞き慣れぬ歌が降ってきた。
澄んだ空気と溶け合うような美しい声は、どこか憂いを帯びて物悲しい。
天にそびえる断崖は、声を反射して村全体へ届ける。
子供の寝顔を見守る母親も、急ぎの仕事に追われた靴職人も、誰もが耳を傾け、心地良い一時に感謝した。
歌は修道院の鐘と共に終わり、辺りは静寂に包まれる。
歌降る夜は、次の日も、次の日も訪れた。
村の青年たちは山へ登り、声の主を確かめようとしたが、揺れる灯の写す影と煌めく金髪を盗み見たのみ。
吊り橋を渡る事は、当然許されなかった。
五夜目に誰かが、歌で応えた。
声は力強く崖を登り、きっと娘に届いたのだろう。
鐘の鳴ったその後に、短い歌が降ってきた。
十夜目には互いの声も熱を帯びて、返歌に返歌が続いた。
ところが十一夜目に、歌は突然降らなくなった。
麓から呼ぶ歌にも、応えるのは鐘ばかり。
誰かが山を降りたという話も聞かない。
村全体が、不安に包まれた。
……と、壁に寄りかかり、館内を見上げて気付く。
中央の天球儀を囲むように吊られた翼達。
ある物は籠の両端にコウモリに似た翼を備え、ある物は椅子に鳥の翼を六枚も備える。
中にはらせん状のプロペラのような翼に袋を下げただけの物も有り、見ているだけで目が回りそうだ。
いずれも抱えられる程の模型であり、いくつか気付いてはいたが、こうして見ると十数個はあろうか。
指差し数えるアナタの元へ、館主が嬉しそうに歩み寄る。
「沢山有るでしょう? 全部で十七の模型が館内を飛んでいます」
昔の飛行機ですか? アナタは問う。
笑顔で何度も頷きながら、館主は空を抱くように手を広げた。
「空に憧れた先人達の試行錯誤。
実験室での憧れに終わった物も有れば、後に実寸で作られ羽ばたいた物も有ります」
ですが……、と広げていた手を胸に当て、表情を引き締める。
「実際に飛んだ物は殆んど有りません。浮いたとしても数センチ。
かの有名な兄弟が飛行するまで数千年、多くの挑戦者が失敗を重ねて来たのです」
アレは何世紀の、アレは高名な科学者の、丁寧に説明をする館主の言葉が、ある展示物の前で途切れた。
ソレは他の展示物の影に隠れた、焦げた籠。
傍らに煤けた布が畳まれている。
首を傾げるアナタに館主が答える。
「ソレは飛行機の類では有りません。百年ほど前の熱気球ですね。
本物なので展示スペースが無く、このような扱いになってしまっています」
館主は語る。
焦げた気球の物語を。
ソレからは、冷たさと暖かさが同時に感じられた。
ソレからは、切なる願いと薄暗き傲慢が同時に感じられた。
展示室の隅、奇妙な自動人形や、美しい装飾のオルゴール達に隠れるように。
ソレは、真鍮で模られた心臓は、ガラスケースの中でゆっくりと動いていた。
だが、赤い循環を作りだすべき管は、どこにも繋がってはいない。
只、満たされる物無き部屋が静かに、正確なリズムを刻み続けていた。
アナタの表情は雄弁に語っていたのだろう。
目が合った館主は、問われずとも語り出す。
心臓の、哀しく奇妙な由来を。
「ソレはオーストリアの、古い民家の地下室から発見された物です」
言って館主は隣に展示してあった、オルゴールの蓋を開いた。
真鍮の櫛歯が爪弾かれ、美しくも哀しいメロディーが館内を満たす。
「一緒に見つかった日記から、その家には医者の一家が住んでいた事が分かっています。
故に発見当時のソレは、変わった趣の心臓模型であると考えられていました」
それを否定したのは、同時に見つかった数冊の研究ノート。
専門用語で埋められたノートは好事家達の目を惹かず、幾人かの手を渡り継いだ後、医療の心得を持ったコレクターの目に止まった。
ノートは語る。
心臓を患った、医者の娘の存在を。
ノートは語る。
医者が試みた、様々な治療法を。
ノートは嘆く。
絶望の縁で、医者が行った、様々な実験を。
暗い海上を、希望の光目指して漕ぎ続けた医者は結局、至ったのだ。
そう、実に、惜しい所まで。
後半の数ページは三日間の、素晴らしい出来事と、喜びと、感謝の言葉で埋め尽くされていた。
四日目、最後のページには一行だけ
『我が 生涯を掛けた 研究を終了する』
そう書かれていた。
「模型では無かった。そう言う事ですね」
これ以上掘り下げるべきでは無い。
館主の表情は、そう語っていた。
髭を一捻りした館主は、演奏を終えたオルゴールを撫でると、ふと、微笑み
「このオルゴールも、同じ民家で見つかった物です」
言うと、素朴な木彫りで飾られた蓋の内側をこちらに向ける。
「歪んで読みにくいですが、こう書いてあります『金色のハートを ありがとう パパ』と」
『Herz』を館主は、敢えて『ハート』と訳した。
「泥人形に命を与えた神でも、ブリキのおもちゃに心を与えた魔術師でもない医者に、娘を救う事は出来なかった」
でも、と
「娘の心は、医者の愛で満たされていた。そう、思いたいですね」
お茶の時間が終わり、館内を気ままに巡るアナタ。
その違いに気付いたのは、2度目に前を通った時だった。
両手に収まる程の大きさ、意匠をこらした箱には、鮮やかに花咲くローズマリーが描かれている。
(オルゴール? それとも仕掛け箱?)
アナタの興味は箱を覆うガラスケースに阻まれる。
見れば透明な防護壁には、真鍮の南京錠まで付いている。
他の展示物とは明らかに異なる扱い、説明書きも、まだ、無い。
館主による説明書きは先日付けられ始めたばかりで、まだいくつかの展示物にしかない。
「どうかしましたか?」
透明な檻に囲われた、赤みがかった木箱の前に立つアナタに館主が気付いた。
悪戯を見咎められた子供の様に一瞬、身を竦ませたアナタだったが、すぐに館主と向き合う。
柔和な館主の表情はアナタを安心させた。
「ああ、そのオルゴールですね。ソレは事情があって鍵を掛けてありまして……」
アナタの近くまで来た館主は、申し訳無さそうに言う。
「最近、そのオルゴールを手にしたお客様が、ソファで眠ってしまって……。
1時間程でお目覚めになったのですが、後日、他のお客様も同様の症状になられて、それ以来、鍵を掛けているのです」
(オルゴール…、どんな曲を奏でるのだろう)
アナタは何故か、ソレが起こした事象よりも、ソレが奏でるであろう美しき調べに興味を抱く。
館主もそれに気付いたのか
「曲が気になりますか? そうですね、私が持っていれば平気かも知れませんので……」
言って、胸のポケットから金色の鍵を取り出す。
館主が南京錠に手を掛けた、その時
「オーデン様っ!」
美しく透きとおる、だが対象を射抜く氷の矢のごとき鋭い声が、館主を凍りつかせる。
金色の髪を結い上げた、黒いパンツスーツの女性がこちらを見ている。
先程のアナタより深刻な顔をした館主が振り向き、苦笑を浮かべた。
「エリザ……」
金髪の女性は赤い下弦の眼鏡を掛け直すと、呆れたように溜息をつく。
「お客様にまた何かあったら、どうなされるのですか」
歩み寄った女性は、アナタに向き直ると
「我が主が失礼を致しました。どうかお許し下さい」
戸惑うアナタに館主が答える。
「失礼しました。どうかお許しを。紹介しましょう彼女は私の執事。エリザ・マグノリアです」
赤い下弦の眼鏡の奥、灰色の瞳が印象的な女性は、胸に手を当てると完璧なお辞儀をする。
「エリザと申します。どうかお見知りおきを」
気ままに館内を舞っていた黄金の蝶が、フワリ、と作業机に降りる。
無事の着地に胸を撫で下ろし、しばし会話が止まる。
オルゴールの音色も途切れ、館内に残る音は歯車達のささめきだけ。
……。
沈黙を破ろうと、誰かが口を開けた時、鐘の音が時を告げる。
1……2……3……4……、4回。
鼓笛隊の演奏を横目に館主が懐中時計を開き、何か合図を送る。
ロビー横のドアが開き、……誰も現れ……無い?
いや、小さな人形が現れた。
花菱柄の赤い着物に、桜色の帯を締めた可愛らしい日本人形。
おかっぱの髪を揺らしながら、カタリ、カタリとこちらに歩いて来る。
手に持つおぼんには、湯気立つ湯呑みがひとつ。
人形はアナタの下で止まる。
アナタが戸惑いつつ「ありがとう」とお茶を受け取ると、人形は一礼して踵を返し、カタリ、カタリとドアへ戻る。
すれ違いに使用人が現れ、人形を笑顔で見送る。
使用人のおぼんには、人数分の湯呑みが揃っていた。
「可愛らしい人形なのですが、一人分のお茶しか出せないのが難点ですね」
館主が苦笑する。
「日本のカラクリには、木が多く使われていますので、動く時に味わい深い音が出ます。
中身を見て驚きましたが、歯車類も木製なのですね」
お茶を配り終えた使用人がドアを閉め、人形は姿を消す。
「アレは江戸時代のモノと聞きましたから、ええと、200年程前ですか?
とある豪商の持ち物だったそうです。
只の思いつきで作らせたそうですが、明治の終わり頃までは、現役で給仕をしていたそうです」
館主は嬉しそうに微笑む。
「歯車や駆動部は傷みますからね。
約100年、何人もの職人達が手を加えた跡が見られました。
国は違えど、職人の心遣いには共感しますね。
ある職人は折れたピンを固い木質に差し替え、ある職人は角を丸めて着物の擦れを防ぐ」
おっと、お茶が冷めてしまいますね、と館主は苦笑いし
「古い機械は使う側の物語も楽しいですが、歯車達に込められた技術も、職人にとっては楽しい物語なのです」
館主は話を締めくくり、手元のお茶を少し掲げる。
「さあ、今日は日本茶にしてみましたよ。お茶受けは水饅頭です」
私は初めてですが、と水饅頭を摘まむ館主は、まだ嬉しそうに微笑んでいた。
展示室の隅に設置された作業台。
顔を上げ、室内を見渡した館主は、再び目の前の難題に取り掛かる。
ここに至るまで数日を要した。
それは、細長い、と言っても指先に乗るほど小さな体から、磨かれた真鍮の放つ深い金色の輝きを放っている。
体の内部に透けて見えるのは、館主が右目に着けたモノクルでなければ判別出来ぬ程の、ごく小さな歯車の集合体。
その背から伸びるのは、オレンジの灯りを受けて煌めく、金色に縁取られた透明な4枚の羽根。
「金色の蝶・・・・・・」
誰かの呟きが漏れる。
それと同時に細いピンセットの先端が、最後の歯車を止めるピンを刺し終える。
館主の肩が大きく上がり、長い溜息と共に降りて行く。
引き出しから、これまた小さなネジ巻きを取り出すと、館主は慎重にネジを巻く。
「さて、皆さん。私自身3回の失敗を経ての今日この日」
ネジを巻き終えた館主が口上を述べながら、そっと羽根をつまむ。
「およそ2世紀前に、幸せな家族が見た光景を再現出来ますかどうか?
その日は大病を克服したばかりの、一人娘の誕生日。
約束した花園へのピクニックが叶わず、沈む娘。
両親は娘の寝室を花で飾り、小さな木箱を手渡しました」
館主が古びた木箱に、蝶を納める。
「涙を拭きつつ、箱を開ける娘。現れたのは金色の蝶」
館主がこちらに向けた木箱を開けると、金色の蝶がゆっくりと羽根を動かす。
黄金に縁取られた4枚の羽根が風を探す。
しばらくして館内の緩やかな空気の流れを掴み、輝く体がフワリと浮くと、館主は嬉しそうに目を細めた。
ヒラリ、ヒラリ、とオレンジ色の光をを受けて蝶が舞う。その軌跡に、光の粒子を引き連れて。
2世紀を経て蘇った、両親の愛が込められたプレゼントは、今日再び、笑顔を運んで来たのであった。
薔薇のアーチを抜け、再び展示室への扉を前にしたアナタ。
「うあぁっっと」
左方からの叫びにそちらを向けば、館主が尻もちをつき、頭を掻いていた。
「やれやれ、失敗ですね。少々バネを強くし過ぎたでしょうか?」
一人呟きを洩らす館主はアナタに気付くと、バツが悪そうに再び頭を掻く。
「格好悪い所を見られてしまいましたね。当館へようこそ」
挨拶を返すアナタは館主の手に、くすんだ黄金色の犬……らしきモノを確認する。
姿形はピンと耳を張り、尻尾を振る小型犬のソレだったが、その身は冷たい真鍮の部品で覆われている。
腕に捕らわれた黄金の犬は、それでもカタカタと音を立てながら駆けるのを止めない。
尻尾と足を元気に動かしながら、口を開け、舌さえ出してみせる。
その顔は真鍮とは思えぬほど精巧に、主人を想い、喜び溢れる犬の表情を模っていた。
館主が苦労して尻尾の付け根を操作すると、跳ねる小犬はようやく大人しくなった。
「この子は、私が叔母から譲り受けたものです」
遠くを懐かしむ様な表情。
「叔母は優しい方でね。小さい頃に亡くした愛犬に誓いをたてて、
たいそう犬好きであるのに、その後新たに犬を飼おうとはしなかったそうです」
口許に笑みが浮かぶ。
「その誓いとは『大人になったら愛犬を生き返らせる事』」
館主が再び犬の尻尾を操作し置くと、犬は地面に寝そべり、ゆっくりと尻尾を左右に振る。
「大人になり、それが叶わぬと知った叔母は腕の良い職人を探し出し、この子を作らせ、誓いを果たしたと言う訳です」
本棚には黒魔術の本も並んでいましたがね……。小声で薄暗い紆余曲折を風に流す。
「ともかく、叔母は晩年をこの子と幸せに過ごしていました。
そして天に召された叔母が遺したこの子を、私が受け継いだのです」
そういうと館主は、再び懐かしむ様に天を見上げた。
光沢のあるベージュのドレスに身を包んだ、等身大の人形。
ドレスの背中を、緩やかな曲線を描いて流れる金色の髪は、オレンジ色の灯りを反射して煌めいている。
白磁の顔に配された薄い唇、上品に整った鼻、精緻な模様まで再現されたガラスの青い目。
それらは人形師の卓越した技によって、向かい合う相手に向けられる、淡い微笑みを湛えていた。
館主は広めの展示台に上がると、人形の手を取り、腰に手を添える。
すると人形から、カチリと歯車の噛み合う音が響き、自動人形は世に産み出された理由を示す。
チクタクと、無数の時計達が刻むリズムの中、1・2・3、と繰り返す声と共に、人形と館主が優雅なステップを踏む。
しなやかなに動く肢体は館主にピタリと寄り添い、動かぬ筈のその瞳は、オレンジ色の光を受けて艶やかに揺れる。
数節、美しき金髪の女性と演奏無きワルツを楽しんだ館主は、節の終わりに手を離し、女性はまた、人形に戻った。
ドレスの乱れを直しながら館主が語り出す。
「この人形はオーストリアの、とある紳士が作らせたモノです。
その紳士はワルツが苦手で、社交の場で意中の姫君の誘いを断ってしまった」
展示台から降り、振り返る。
「練習用に作らせた人形と毎晩のように踊った彼は、数か月後にその姫君と一度踊り、
そして二度と社交場でワルツを踊る事は無かった」
結局は生涯独身だった様です、そう付け加えると、汗ばんだ髭を丁寧に撫でつけた。
切り上げようとした館主は、続きを促す視線に気付き、苦笑いを浮かべる。
「これは、あまり話すなと言われているのですがね」
許しを請うような仕草
「紳士が遺した肖像画を見せて頂きましたよ。
そこにはワルツを踊る、一組の男女が描かれていました。
女性を見つめる紳士は幸せそうに微笑み、純白のドレスに身を包む女性の顔には、美しいベールが掛かっていました」
館主は肩を竦めると
「一世紀も前の事ですが、これ以上は勘弁して下さい」
そう言って、再び苦笑いを浮かべた。
(アレは一体何なのだろう?)
入口脇に設けられたロビースペースで、アナタはお茶を楽しみながら、会話の合間に中央の巨大な機械を見つめる。
吹き抜けの天井に達しようかという本体から、大小数個の球体とアームが伸びている。
「気になりますか?」
アナタの視線を読み取った館主が、嬉しそうに話出す。
「アレは私がコレクターになる切っ掛けとなった機械。オーラリー、日本語では天球儀と呼ばれるものです」
中央の太陽を模した灯りから、暖かみのある光が広がる。
周囲には水星、金星、地球、火星、木星、土星が配され、それぞれを無骨なアームが支えている。
良く見れば地球の周りには、小さな月も確認出来る。
「これは惑星の公転を表す物です。年代は不明。天王星が無いので、古い物であるのは間違いないですね」
館主が使用人に合図し、照明が落とされる。
館内を照らすのは中央の太陽だけとなり、惑星達は満ち、或いは欠けた月の様に影を纏う。
館主が指を鳴らすと壁や天井に星々が映し出され、宇宙から太陽系を見上げたかの様な不思議な光景が浮かび上がった。
「東欧の旧家。元は貴族だったと聞いています。その家の地下に、この天球儀は在りました」
館主が懐かしげに言葉を紡ぐ。
「噂を聞いて訪れた私が見たのは、土台、数本のアーム、箱に納められた球体達。
家長はソレが天球儀であると知っていましたが、組み立てた事は無い、と言っていました」
何故か分かりますか? 館主は問うて苦笑いを零す。
「間違ってるから。そう、伝え聞いて来たそうです。太陽が真ん中に在るなんて可笑しい、と」
いやはや……、と続く言葉を紅茶で飲み込む。
「家長を説得し、天球儀を譲り受けた時に私の機械収集は始まりました」
再び懐かしそうな表情に戻った館主は、愛おしそうに居並ぶ機械達を見渡す。
「6つの惑星と月の公転を、この規模で表しているのです。部品も大きく、修理に時間がかかる物ばかり。
元々、時計は好きでしたから、自分で修理もしていたのですがね。それでは知識が足りない」
「参考にと、古い機械を集めるうちに数が増えすぎてしまいました」
館主は再び、天球儀を見上げる。
「色々ありましたが、ようやくこの島で天球儀は本来の姿を取り戻したのですよ」
再び指が鳴ると、天球儀がゆっくりと動きだした。
星の海に浮かぶ太陽の周りで、惑星達が円を描く。
その中で、青い地球が月と寄り添うように回る。
地球と月の輪舞を、館主は幸せそうに見ていた。
鐘の音が響く。
館内のざわめきを全て制するような存在感で、1……2……3……4……、4回。
何事かとその方向に目をやれば、大きな壁掛け時計の針が、丁度4時を指していた。
白い文字盤の左右が反転し、鼓笛隊の格好をしたサル達が現れると、笛とベルが行進曲を奏でる。
さらに左下の扉が開くと、奥から動物達が躍り出た。
彼らは皆、一様に笑顔で、様々なお菓子を抱えている。
シュークリームを頬張るキツネを先頭に、続くウサギとリスがマカロンを両側から齧る。
ハリネズミが大きなキャンディを抱えて転がり、フクロウはタルトのブルーベリーを啄ばむ。
クマが持ったパンケーキには、零れそうなほど生クリームが盛られ、下ではネズミが口を開けて待っている。
一行は文字盤の前を4回行き来すると、右下の扉に吸い込まれていった。
曲が途切れると、4回ベルが鳴り、左右の鼓笛隊も盤の裏へと帰って行った。
「館内の時計は展示用にずらしてありますが、あの時計は正確です。おやつの時間ですよ」
館主が懐中時計で確認しながら、満足そうに頷く。
「この時計は街の広場を囲む、カフェで時を告げていた物です」
現れたメイドに何事か指示を出し、さらに続ける。
「広場の向こう正面にある歯医者の男が、いつもは2時のお茶の時間に遅れてカフェにやって来ると、お気に入りの席に美しいご婦人が座っている」
「いつもの席に座れなかった男は、いつもの様に不機嫌にお茶をすすって帰りましたが、翌日も、その次の日も、同じ時間にカフェに来て、不機嫌そうにお茶をすする」
館主は漏れそうな笑いを堪える。
「季節が巡り、いつもの様にやって来た男は、この時計をカフェに贈り、次の日からはご婦人と二人でお茶に来るようになったそうです」
「二人の時も、顔は不機嫌なままだったそうですがね」
館主が堪え切れずに笑う。
「さて、ロビーでお茶にしましょうか。今日はピスタチオのマカロンを用意させましたよ」
お茶の後も、館主の話はまだまだ続きそうである。
幅は1mほどだろうか。
赤みを帯びた木製のの台座に、仮面を着けた貴婦人と紳士の人形が立っている。
「フランスの旧家より譲り受けた物です。保存状態が良くて、オーバーホールだけで動いてくれましたね」
言いながら館主がネジを巻き、レバーを下げると軽快なワルツが鳴り響く。
と、仮面の紳士が動きだし、優雅な仕草でお辞儀をする。
貴婦人も淡緑のドレスの裾をつまみ、それに答えると、二人は手を重ね、紳士が華奢な腰をそっとサポートする。
無機質な真鍮製のシリンダーが爪弾く櫛歯は、美しい音色で辺りを満たす。
向き合った二人は右へ左へ合わせて動き、ドレスの裾が揺らめいて後を追う。
踊る二人が顔を寄せ、離れ際に貴婦人がフワリとターンする。
支えた手を紳士が名残惜しそうに離すと、再び互いにお辞儀をして演奏も同時に終了した。
館主はレバーを戻しながら語る。
「これを工房に発注したご婦人は、毎日夕刻になるとネジを巻いて、懐かしむ様に踊る人形を見ていたそうです」
言いながら、人形のスカートのシワを直す。
「踊る二人に、ご婦人は何を重ねていたのでしょうか?」
一息だけ、最早帰らぬ問いの答えを待った館主は、次の展示へと歩を進める。