【逆行】

「あたしはね、町のインフラを調査してたのよ」
「いんふら……？　電気とかそーいうのなのだ？」
　後木 真央の頭の上、三毛猫がおーを撫でてやりながらに。神薙 焔は、こくりとうなずきます。
「そ。電気、ガス、水道……町があって人が暮らしてるなら、そういうものが機能してるはず」
　ぐるりと見回した町は、もやのような霧のような暗がりに覆われ、道行く住人たちの顔も見えず……けれど確かにそこには、焔も、真央も知る普遍的な人間の営みとそう変わりない、人々の生活がありました。
「で、変電所か何か無いかと思って探してたところで、アレに見つかっちゃってね。あちこち逃げ回ってるうちに、この家にたどり着いたってわけ」
「この家？」
　背後を振り向けば、一軒の古民家。周囲の家々には古めかしくも人手が入っているように見えるものの、ふたりがいる軒先はひどく荒れていて、玄関口には表札も見当たりません。
「な、なんかブキミな空き家なのだ……ここが、どうかしたのだ？」
「声が聞こえたの。中から」
　奥から、かすかに。聞こえたと言うのです。
「多分、小さい女の子かしらね？　周りを確かめてみたら、この辺りではこの家だけ、電気もガスも止まってるみたい。気になって、調べてみようかな……と思ってたところに、後木ちゃんがやってきて」
「助けてくれたってことなのだ、ええとつまり焔ちゃん今からこの家に……は、入ってみるのだ？　ブキミな、この中に？」
「ええ。だって、気にならない？」
　焔が指差したのは、レンズ・キャッツ。真央の腕の中、福ちゃんのおでこです。黒猫の瞳が、じじじ、とふたりを交互に眺めます。
「あの新出府って人は、あたしたちをこの町へ送り込んだ……情報をあげる、なんて言ってね」
「あ……真央ちゃんそーいえば、秘子ちゃんの家を探してるところだったのだ」
「そしてあたしたちは、今こうして、この家の前に立ってる。これって偶然かしらね？」
　ぐびり、と喉を鳴らし、真央は古民家を振り返ります。
「は……入る、のだ？」
　すがるように福ちゃんを抱き、片手で頭の上のがおーを撫でてやりながら尋ねた彼女へ、焔は答えず。ただうなずいて……引き戸の扉に手をかけ。
　やがてそれを、ゆっくりと、開きました。
　扉が溝を滑るからからという音が、やけに耳につき……その向こうに見えたのは、板張りの廊下。奥へと続く、底の見えない暗闇。
「っ、ひィ……！？」
　びくりと肩を震わせた真央の耳にも聞こえた……声。確かに、かすかに。
　少女の、声が。



　廃墟の闇の奥から届く声は、まだ幼い女の子のものであるようです。
「……！　見てください、あれ」
　屋敷野 梢が、気づきました。
　指差したのは、壊れた壁掛け時計。びりびりに破かれた、日めくりカレンダー。既に役割を果たしていないそれらが……ぱらぱらと。風に吹かれるように、勝手にめくれて。ぐるぐると、針を巡らせ。
　復元され。時を、遡っていきます。
「どうなってる……？」
　ちくり、不意に痛んだ左腕を押さえた志波 武道もまた、気付きました……同様に、芽守 健作も。呉井 陽太も。
「……あの黒い霧のようなものが……晴れていきますね」
「周りが……セピア調？」
　暗がりに沈んでいたはずの視界が一瞬にして、その様相を変化させていました。まるで……そう。カメラレンズのフィルターを差し替えるように。かたかたと映写機が映す、記録映像のように。
　勅使河原 悠が耳をそばだて、
「あ……他にも、何か。聞こえます。これ……ラジオの音？」
　朝鳥 さゆるだけが黙して言葉を発せず、冷めた眼差しで、それを眺めています。
　ざ、ざざざ。ざざざ。砂嵐のような、耳障りなノイズ。後に、
『……児失踪……件は発生から六日を迎えた今日も警察が女の子の行方を捜索中にも関わらず依……がかりは無く……』
「……おとうさん……おかあさん。いつ、むかえにきてくれるのかなぁ……」
　はっきりと。ラジオのひび割れたような声に混ざり、聞こえました。姿は見えずとも、少女の声が。
　ぱら、と。壁の日めくりカレンダーがめくられて……示した日付は、
「……およそ十年前、というところでしょうか」
　健作がペンを取り、手帳へとそれを書き付けます。
「おかし、いっぱいあるから、おなかはすかないけど。だあれもいないや……あのこわい人たちも、どっかいっちゃった……」
　少女の声は、自らを静寂に飲み込まれまいと、あえて口にしているようにも聞こえました。
　ぱらり、と。カレンダーの日付が変わり。ざざざ、ざざ。
『……件の続報です。女の子の両親は共働きで日頃から仕事に忙しく放任しがちで互いに娘の行動……握しておらず、両親が失踪に気付き警察へ捜索依頼が出された時点で既に事件発生から……日が経過し……たことが明らかに……』
「ひまだなぁ……本があればよかったのに。あ、よみかけのあの本、おはなしのつづき、気になるなぁ……」
　ぱらり。カレンダーの日付がめくれて、ざざ。ざざざざ。
『……子の自宅周辺にて不審な男た……撃情報があり、現在警察がその行方を追っています。犯人は二人組とみられており凶器などを所持……』
「だあれもいない。ひとりぼっち……あ、いっつもそうだっけ。あはは」
　カレンダーが、ぱらり。ざざざざ、ざ、ざざざ。
『……未だ見つからず、警察の懸命な捜査が続けられています。さて、次のニュースです。神奈川県木天蓼市の寝子島にある寝子島神社では今年もお三夜まつりの時期が訪れ……』
「おうたでも、うたってようかなぁ」
　拙く、寂しげな。幼い歌声が、しばし廃墟の壁に反響し。やがて暗がりに吸い込まれるように、消えていきます。
　ぱらり。ざ、ざ、ざざ。
『……県の動物園では出産ラッシュ！　かわいい動物の赤ちゃんをひと目見ようと大勢の来場……詰めかけ……』
「…………だあれも……きいてくれないもん。わたしの、おうたなんて……」
　鼻をすする音。嗚咽にまみれた、恐らくは涙まじりの、かすれ声。
「だあれも……わたしなんて、見てないもん。だあれも、きいてないもん。わたし、いないのとおんなじ……みんな、わたしなんて、どうでもいいんだもん。クラスのみんなも。せんせいも…………おとうさんも、おかあさんも……」
　ざ、ざざざ。ざざざざざ、ざり、ざざざ、ざりり。
　ダイヤルを回して、チャンネルに周波数を合わせるように。砂嵐めいたノイズが、ひとしきり。響いた後に。
「わたしの……おうたなんて、だあれも……」
『…………聞いてるさ』
　ラジオ。スピーカーから。
　男の、声が。
『お前さんもひとりっきり、か。分かるよ、孤独ってのは、思いのほかこたえるもんだ……さて。お嬢ちゃん、良けりゃあ俺と、お話しちゃあくれないか？』
「……？　だあれ？」



　軋む板張りの廊下に立ちすくみ、焔と真央は、一変した周囲を見回します。にわかにセピア色のフィルターめいて明るくなり、荒れ果てた空き家には生活の色が蘇り、整えられていき、真央はもはや焔にしがみつかんばかりに身を寄せながらに、
「な、な、何がどうしてどうなってるのだこれ何なのだ……！？」
「……見て、カレンダーが！」
　ぱらぱらぱら、風にあおられるようにめくれていく日付は、およそ十年前。
　居間らしき襖の向こうの部屋から聞こえてくるのは、少女の声。
　拙い、歌声。
「ふふふん～きょうも～おとうさんは～、おしごとで～。おかあさんも～、おしごとで～。わたしは～ひとりで～ふんふふ～、ふふふ～ん」
　焔の手が、ゆっくりと襖へと伸び、指をかけ。
「あっ！　テレビ見なきゃ！　きょうは、あゆみちゃんが出るんだもんね。いいなぁ、わたしもあゆみちゃんみたいに、おうたがじょうずになりたいな。そうしたらみんな、もっと……」
　す、と開けば。
　……全ては、元通り。暗いもやに包まれた狭い八畳間には、割れた豆電球。壊れてひっくり返った丸テーブル。空の木鉢に、欠けた湯のみ。くすんだ色の、ブラウン管テレビ。
「誰も、いないのだ……あ」
「それは……？」
　打ち捨てられている、色褪せた絵日記帳。ただ、それだけ。