白霧のその向こう｜リアクション

白霧のその向こう

　燈籠の下に座し、翁面を顔に掛けた袴姿の少女が白い両掌を揃えて差し出す。
　目前の少女の掌さえも白く濁らせる霧に、斑鳩遙は眼鏡越しの黒い瞳を数度しばたたかせる。
「――嫌？」
　見上げるように覗き込んでくる少女に緩く首を振って見せた、その途端。箍が爆ぜ飛ぶように、唇が笑みに歪む。無感動にも見えた瞳に泣き出しそうな色が浮かんで、
「記憶などどうでもいい」
　消える。
「いくらでもくれてやる」
　少女の前に跪く。紅鳥居で借り受け、霧を渡る間中ずっと片手にしていた護身用の短刀を膝に置く。まるで今しも腹を割るように、待ちかねた死神を前にしたように、少女を見つめて訴える。
「どうしても会いたい奴がいる。その為なら俺は」
　面の奥、少女が淡く笑む気配がした。少女の両手が伸びる。短刀を掴んだ拳に冷たい掌が触れる。
　瞬間、思い出した。
　大学の階段教室の端に降り注ぐ、麗らかに暖かな春の陽射しを。
　長閑な陽光を背に受け、広げた本に受け、記された文字を瞳で追っていて、ふと。背後に影が差した。気にも留めず本に集中していて、不意にその本を後ろから取り上げられた。
　不機嫌に振り返って、初めて――
「貰ったよー」
　目の前、老翁の面掛けた少女のかたちした何かがあどけない声で笑う。
「……ああ」
　ひどく懐かしく、ひどく胸を掴む記憶を掘り出された気がした。例えば、どうしても会いたいあいつの、何の含みもない屈託ない笑顔の記憶。
（それでも、……）
　そんなものは、今はどうでも良かった。
　少女に促され、立ち上がる。見送られ手を振られるまま、廃墟にも似た墓所に踏み込む。

　石燈籠にぼうやりと照らし出される御影石の墓標の脇を過ぎ、乱立する卒塔婆を踏み越え、土饅頭に足を取られ転びかけて咄嗟に掴んだ痩せ衰えた椿の向こう、――遙は遂に邂逅する。
　己が記憶を捧げてまで会いたかった、学生時代からの親友。
　エキセントリックな言動で有名な天才ピアニストだった男。
（時任彼方）
　己を虐げ弄び続けた、愛憎半ばする男の名を心に呻く。胸に死の臭いの空気を満たし、漸く会えた親友を見据える。
　ずっと、会いたかった。
「何で死んだ？」
　ずっと、問いたかった。
　お前は一体何を伝えたいのかと。
（どうして、）
　重ねて問おうとするよりも先、視線が絡まった。その憐れむような愛おしむような眼差しに言葉を失った。
（どうして、）
「お前は本当に馬鹿だな」
　眼差しそのままの声音で、親友は囁く。
「馬鹿で可愛くて可哀想だ」
「何？」
　思ってもみない言葉に、瞬くしかできない。
「俺を殺したのはお前だ」
　足元を突き崩される思いで蒼白になる遙に、顔色ひとつ変えず続ける。
「お前は一生かけて俺の渇望に贖い続けるんだ」
「どういう事だ」
　呻いて、呻けることに気付いた。そうして言葉が迸った。
「一体俺が何をした、お前が勝手に振り回したんじゃないか」
　あの頃言葉にしなかった言葉が口をつく。親友が目の前から消えて後は胸に渦巻くばかりだった煩悶が悲鳴じみた声になる。
「俺はただ煩わされずに生きたかったのに、勝手に執着して束縛して、俺の人生を滅茶苦茶にしておいて、この上、」
　悲鳴は刃のかたちをしていた。吐き捨てると同時、短刀の鞘を捨てる。
「この上まだ呪いをかける気か？」
　親友を抱きしめるように、親友の胸に鈍く光る刃を突き刺す。
「もうお前に縛られるのはごめんだ」
　親友の肩に額を押し当てて、睦言囁くように言い捨てる。
　一切を承知していたかのような親友の吐息がうなじに触れて、そっと手をさしのべ両耳を優しく塞がれて、気付いた。その息の冷たさに、脈打たぬ死人の手に。
　そうして、やっと気づいた。
「お前がいなくて虚しい」
　悪夢の続きのように、続ける。自分をごまかし続けるのはもう限界だった。
「何をどうあがいてもからっぽだ」
　彼方、と親友を呼ぶ。
「何で俺はこうなんだ、どうしてお前じゃなきゃ駄目なんだ、どうして俺の中からいなくなってくれないんだ」
　体中の息を吐き尽す。親友の身に刃を突き立てたまま、その場にへたりこもうとして、それすら親友は許してくれなかった。青褪めた額を遙の額に合わせ、冷たい息が触れる間近で悪魔のように笑う。
「忘れるな、遙」
　諭す。
「俺がお前にした事を。お前が俺にした事を」
　親友の言葉が鈴蘭の毒のように胸を満たし息を奪う。溺れるように指先で宙を掻いて、気付く。
　自らの傍に、親友と呼んだ男が最早存在しない事に。

このページにイラストを設定する

白霧のその向こう

シナリオ

シナリオデータ

シナリオスケジュール

参加キャラクター一覧