白霧のその向こう｜リアクション

白霧のその向こう

　霧に輪郭を滲ませる紅の鳥居の向こうへと、白い子犬の怯えた尻尾が溶けてゆく。
「お久しぶり、お兄さん」

　少年の顔持つ子犬を見送りつつ、桜庭円は巨大な鳥居の柱の傍に座す翁面の男に挨拶する。
「ああ、あんたか」
「ボクにもお守りちょうだいー」
　面の奥の瞳を僅かに細める男の前にしゃがみこみ、円は十五にしてはどこか幼い仕種で小さな掌を差し出す。
「行くんやな」
　少女の手に赤い布のお守りを乗せ、翁面の男が低く囁くのに、
「行くよ」
　円は立ち上がりながら応じる。強い意志宿す緋の眼差しを白霧の向こうへと伸ばす。
　大事だった人のことを忘れるのは怖かった。
　大事な物を失ってしまったかもしれないことが。何かの切欠が欠けてしまった可能性があることが。突き詰めれば、誰かとの思い出が確かに消えていることが、堪えられないほど薄気味悪かった。
　それなのに、記憶を失った確信が持てなかった。そのことが、何よりも怖かった。
「気ィつけて行き」
　翁面の男に声を掛けられ、鳥居の先に向けていた緋の瞳が小さく和らぐ。円の視線に気付いた様子も見せず、翁面の男は針穴に糸を通そうと苦心している。此処を通る皆の為にお守りを縫っているのだろうか。
「お兄さん優しいね」
「わしはこれが仕事や」
「でも、ありがとう」
　衒いのない謝意を少女に告げられ、男は面掛けた頭を困惑したように傾けた。後頭を指で引っ掻き、
「こら、そっち行くんやったらせめてこれ持って行かんかい」
　霧を散らして鳥居の奥へ突っ込もうとする赤いジャージの少女に慌てて声を掛ける。胡坐の前に積み上げたお守りのひとつを掴み、少女の短い茶髪目掛けて投げる。
「わっひゃ？」

　赤いお守りを頭にぶつけられ、少女が背負った赤猫リュックが大きく揺れる。
「って、あれ？」
　飛び跳ねた勢いでしゃがみこみ、玉砂利の地面に落ちたお守りを拾い上げて、後木真央は向こう見ずに霧が渦巻く鳥居の奥へ突っ込もうとしていた足を止めた。翡翠色の瞳を凝らし、
「円ちゃん、グレちゃん」
　鳥居の傍らに座す知り合いのふたりの姿を捉える。
「真央ちゃん」
「やっほー円ちゃんなのだ！」
　円に元気いっぱい両手を挙げて振り回し、
「四度目ましてこんにちはなのだ」
　以前日暮と名乗った翁面の男に歌うような弾んだ声で人懐っこく笑い、ちらりと首を傾げる。男と出会った今までの記憶を辿って後、また朗らかに笑む。
「グレちゃんちょくちょくお面が違ってお洒落さんなのだ」
「……鳥居の向こう行くんやったら番人の説明くらい聞き」
　『番人』の日暮の話を一通り聞いてから、真央は手にした赤い布地のお守りを暫く見つめる。前に物の怪の溢れる町で『鬼』と呼ばれるものに出会った際、自分の赤ジャージを裂いてこんなかたちの小さな袋を縫った。あの袋に詰めこんだ自分の願いは、『鬼』たちに届いたのだろうか。
　少なくとも、彼らの動きを、心を惑わせられるくらいには、彼らに届いたのだろうか――
「お守り、返すのだ」
　自分が縫ったよりも不器用な縫い目のお守りを、真央は日暮の着物の膝に戻す。
「他の子に上げてほしいのだ」
「何する気や」
　険しく問い詰められて、真央は首を横に振る。明るい笑顔に譲れない思いを押し込め、霧に身を隠す。日暮とは反対の鳥居柱の下に蹲り、スマホを取り出す。画面が示す『圏外』には構わず、内蔵カメラの録画アプリを呼び出す。カメラレンズを自分に向け、深呼吸をひとつ。
「真央ちゃんは後木真央なのだ、家族はおじぃとおばぁと叔父貴、」
　真摯な瞳で自分を撮る。
「がおーの召喚方法は手を丸め……」
　失くしたくない記録を残す。
「それから、それから……」

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