白霧のその向こう｜リアクション

白霧のその向こう

　霧に黒く濡れた古びた墓石群を石燈籠の朧な光に見た瞬間、後木真央は踵を返した。案外怖がりなその癖、旺盛な好奇心を抑え切れず奥に進みすぎたことを後悔しつつ、通り過ぎた神木のもとへと戻る。
　梢を霧に隠した巨木の幹、霧の中にあって無数の星じみてきらきらと輝くおはじきを見上げながら幹回りを辿り始める。
　数歩も進まぬうち、
「影ちゃん」
　樹の根に絡め取られて身動き止めた影のかたち持つ『鬼』の前に辿り着く。ポケットから取り出した飴玉のひとつを突っ込む。残りの飴玉は三つ。他の鬼たちにも順番にあげようと決めて、まずは影の鬼の隣にしゃがみこむ。
　おはじきに似た飴玉を口にしても、鬼は身動ぎもしない。
「二度目ましてなのだ影ちゃん」
　友達にするように、真央は影の鬼に話しかける。応えはない。
　しばらく待っても、鬼は動く気配を見せない。周囲に人気もない。
　真央は翠玉の瞳を神木へと巡らせる。無数にきらめくおはじきの中、理由も分からず眼を惹きつけるおはじきのひとつに手を伸ばす。
　手に握りこんだ途端、心に還ろうとする己の記憶を、己が記憶を宿すおはじきを、影の鬼に差し出す。
　樹の根から解放され、おはじきを取り返すべく霧に立ち上がった影の鬼は、真央に手を掴まれ、恐れ気もなく笑いかけられ、
「一緒に遊ぼう。石けりとかどうなのだ？」
　声まで掛けられ、迷う仕草を見せる。
「記憶が欲しいのならあげる」
　中学までの記憶も、寝子島に来てからの記憶も。己が己になれる記憶以外の全てを差し出そうと決めて、此処に来た。
（大切なものは全てスマホに残っているから）
　影の鬼が動きを取り戻す。真央の掌で光るおはじきを薄っぺらな影の手に取り、
「影ちゃん」
　真央の呼びかけに応えるでもなく、樹の根の間に座り込む。樹の根に包み込まれ、再び固まる。
「……お腹、空いてない？　寂しくない？」
　石像のような影の鬼に喋りかける真央の背後、霧を振り払い、青年がひとり駆け抜ける。
　玉砂利を縦横に這う樹の根に足を取られ、高城律は転ぶ。体に暴れる心臓を押さえる。切れる息を整えもせず、擦り剥いた手や膝に構いもせず、立ち上がる。
　霧よりもずっと熱い涙が頬を濡らすも、気にする余裕はない。
　涙と霧が雫になって伝う頬を上げる。目前を塞ぐ神木と、その樹皮に埋まる数多の硝子の欠片。雪に溶けた空の青、夏の宵に爆ぜる炎の朱、春風に舞う花の桃、秋空に飛び散る漣の白、――誰かの記憶の破片。
「ッ、……」
　彼女の指先が最後に触れた瞼に触れる。
　神木に輝く無数のおはじきは、世界は、涙に熱い眼に眩しいほど鮮やかな色彩に溢れていた。
　鬼に奪われた幾多の記憶の欠片のその中に、彼女が憧れた空の色を見つける。彼女が忘れてもいいと言った、己と彼女との記憶。
　取り戻してしまえば、立ち上がれなくなるかもしれない。また死にそうな思いで彼女を思い出すことになるかもしれない。罪の意識に押し潰されそうになるかもしれない。それでも、
（それでもいいんだよ！）
　湧き上がる不安を一喝して踏み躙る。
「これは俺の記憶だ、」
　樹皮に埋まる空色のおはじきに手を伸ばす。
「あいつとの思い出だ！　だから、」
　己の記憶を永遠に奪おうとする神木を睨み上げ、怒鳴る。
「返せよ！」
　握りこんだ指におはじきの冷たさを感じるより先、律は踵を返す。脳裏に弾けて胸を刺すあの日の記憶に瞳を歪める。唇を噛み、おはじきを拳の内に包み込む。
「かえして」
　霧に幼い少女の声が響く。神木より放たれ、追い縋る『鬼』に向け、律はお守りを叩きつける。
　幼女の姿した『鬼』を殴ってでも、怪我をしてでも、
（逃げてやる）
　疲れ切った身体の体勢が投擲の勢いに崩れる。その場につきそうになる膝を拳で殴って持ち応える。地を蹴る。
　彼女との思い出を守れるのならどこまでだろうが、
（足掻いてやる！）
　彼女との思い出を胸に、彼女の分まで生きてみせる。
「……かえして」
　お守りの足止め効果が切れたのか、必死に駆ける背後に幼子の声が掛かるも、肩越しに振り返る霧の奥に『鬼』の姿は見えない。
　好機とばかり走り去る律のその後、
「待ってなのだ」
　着物纏うた少女のかたちした『鬼』の手を掴んで、真央は必死に呼びかける。おはじきの代わり、咄嗟に掴み出した飴玉を小さな手に握らせて、あっけなく振り解かれる。
　最早追いつけぬ律を尚も追う『鬼』の姿が霧に隠れて、真央はその場にへたりこむ。

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