【02:51　５０９号室】

　燃えています。部屋の中、何もかもが。
　焦げ臭さが鼻に付き、けれど熱くは無く、煙にむせることもありません。
　花菱 朱音の見つめる、彼以外には。
　目の前で炎に巻かれ、激しく咳き込む男が、恐らくはこの世の人間ではないことに、朱音はしんと冷えた頭の片隅で、何となく感謝していました。これが本物の人間だったなら、肉の焦げる臭いに、焼け爛れる肌に。
「……きっとそれって、トラウマものだものね」
「もーっ、おじさん！　毎日毎日、こんな風に部屋を燃やしてたら、迷惑でしょ！」
　岡野 丸美はどうにも、どこかずれていましたけれど。
「やっぱりタバコの不始末、なのかなぁ？　おじさん、タバコ吸うひと？」
「……いや。そうじゃない……きっとそういう風に、見せかけられたんだろう」
　何気ない丸美の言葉を拾ったのは、音羽 紫鶴。彼は時計を確認して、毎日決まった時間に身を投げるという、あの噂……その時刻を確かめて、言いました。
　紫鶴は室内や現象についての写真を撮り、それらについて考察し、今では自身の予想が正しかったことを、はっきりと確信し始めていました。
「寝煙草が原因なら、火元はベッドの枕元か、サイドテーブルあたりのはずだ。しかしこの炎は……入り口のドア付近に端を発し、燃え広がっている」
　男は煙にむせ、やがて服のあちこちにまぶしい炎を宿しながら、熱された扉へついた手のひらに、弾かれたように飛び退き。壁のあちこちへと手を付きながら、苦悶から逃れる脱出口を探し求めた末に。
　やがて、はっとした顔を浮かべ。
　走り出しました。
　窓へ。
　尾鎌 蛇那伊が右手を伸ばして、彼の身投げを阻止しようとしたものの……するり、と不思議な感触を手のひらに残して、
「……ま、仕方がないわね。もう、変えられないんでしょうから。さようなら」
　大仰に肩をすくめた彼に見送られながら、炎の塊は、窓を突き破り。夜の中を落ちていきました。



【02:52　３０４号室】

　全身を拭い終えた朝鳥 さゆるは、その過程を経て、冷静な自分を取り戻していました。真っ赤に染まったタオルには既に、彼女の意識はありません。
　ただ一心に、さゆるは出口を、そこへ至る方法を探し始めました。
　入り口の扉が開かないことは、確認済み。ダイヤル式の黄ばんだ電話は通じず、窓も開きません。
　手がかりはきっと、脳裏に瞬く、記憶に無いシーン。ベッドの上で絡み合う、二つの人影。
　さゆるは既に、そのいずれもが、自分とは別人であること。そして以前にこの部屋を利用した誰かの記憶へと、自分が触れているのだと、そう確信していました。
　絡み合ってうごめく人影の一人は、見知らぬ女。
　もう一人は、
「逃げられないわよ」
　さゆるは振り向き、肩越しに、それを見ました。
「あなたはもう逃げられない。どの子も、最初は驚くわ。いくら男どもに慣れててスレた子だって、私の与える快楽を一度味わったら、初心な子猫のように鳴くのよ。そして逃げられなくなる、私から」
　壁の絵。美しい肖像は、さゆるの記憶へ入り込もうとする、あの、もう一人の人影と同じ顔をしていました。
　ぽとり、と、何かがベッドへ落ちる音。
　それは一粒の、錠剤。
「さあ、もっともっと、一緒に楽しみましょう？　あなたは何も心配しなくていいの。全部ぜんぶ脱ぎ捨てて、私に身を任せればいいの。それだけで……」
　ぽとり、ぽと、ぽと。ぼとぼと、どざざざ、ざざざざざ。肖像画の口がぽっかりと開いて、中からざらざらと、滝のように、それはこぼれ落ちていき。



【03:03　５０２号室】

　もぞもぞと、そいつは絨毯の上を蠢きます。虫のように。すぐにも鳥たちに捕食されそうな、哀れな芋虫のように。
　そうしてその哀れなそいつを眺めていると、いささかささくれていたはずの大天使 天吏の気分も、何だか少しだけ、晴れてくる気がするのです。
「結局、人間は、彼らを見ていないのよ。彼らが過酷な食物連鎖の中で、どれほど懸命に、必死に生き抜いているか。見ようともしていないのよ。人間は」
　空の鳥を見よ。蒔くことも刈ることもせず、倉に取り入れることもなく、それだのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていて下さるではないか。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
　目の前でみっともなくもがくそいつの内側に、聖書の一説に、そう記されています。
　読む者の思考や立場によって、解釈は異なるでしょう。
　少なくとも、天吏にとってのそれは、唾棄すべきつまらない妄言に他なりません。
「あなたを書いた人間は、傲慢だわ。傲慢で、滑稽だわ。私が知る、全ての人間と同じように」
　もぞ、もぞと。否定の意思なのか、ページをぱた、ぱたと。動かして。
「それで？　あなたは、どうしたいの？　そうしてページを繰って、鳥のように空を飛んでみせる？　それとも」
　右目に冷たい輝きを宿しながら、天吏はそいつを眺め続けます。満足げな微笑みを、口元へ張り付けながら。
「そのまま虫のように、地べたを這いずるだけ？　いいわ。見ていてあげる。あなたが立派に空を飛べるようになる、その時まで」



【03:24　４０５号室】

　飛び出した無数の刃。それらに全身を傷付けられ、深倉 理紗子は今、死に瀕しています。
　だくだくと流れ出る血は、医者であるはずの彼女にももはや止めようが無いほどに、傷は深く、深刻な危険が、彼女の命を脅かしていました。
「ああ……身体中から、血が出てる……死んじゃうのかな、私……やだ、いやだ、死にたくない……」
「……どれもかすり傷ですよ。死にはしないでしょう」
　苦笑いの混じった芽守 健作の声で、理紗子ははっとして飛び起きました。
「あ、あれ？　私、また夢を……？」
「まぁ、それなりに派手な出血でしたからね。無理もありません。手首の傷だけは、少しだけ深かったですし……でも、すぐにそれも消えるでしょう」
　バスルームの戸棚から溢れ出した剃刀の刃によって付けられた傷は、夢の中ほどには深くなく……というより、門外漢の健作による応急処置ですっかり血が止まったくらいなので、もとより大したものではなかったのでしょう。
　健作は相変わらず、理紗子が起き上がってはがりがり、何かを目にしてはがりがりと、しきりにメモ書きを続けています。
　理紗子は思わず、
「……そんなにメモを取って、どうするんですか？」
「え？　ああ、これは……クライアントへの、報告義務がありますので。助手とはいえ、探偵ですから」
　聞けば彼は、とあるお金持ち……ことにオカルト話に多大なる感心を寄せる依頼主から、このホテルの調査を頼まれたのだと言いました。
「もの好きな方にとっては、ここは垂涎のネタの宝庫というわけで」
「か、変わった方がいるものですね……」
　と。理紗子が彼の依頼主とやらへ、ひとつ眉をひそめて言った、その時でした。
　部屋の真ん中……二人が今まさにいる、この部屋の中央で。
　ご、どん。
「っ、な、何！？」
　何か、硬い物同士がぶつかるような、大きな音がしました。
　直後に、じわり。じわりと、床の絨毯へと広がっていく、赤い染み。
「この、部屋……何かが、いる……？」
　何かがばたばたと、激しく動き回っているような。そんな音や気配だけが、室内へと広がります。



【03:46　４０４号室】

　ずるり。ずるり。ずるり。
　ぴちゃ。ぴちゃ。ずるり。
　碓氷 真理は。
　ずるり。ぴちゃ。ずるり。
　ぴちゃ。ずるり。ずるり。
　彼女を、見据えます。
　ずるり。ぴちゃ。ぴちゃ。
　ずるり。ずるり。ぴちゃ、ずるり。
　這いずる少女は裸身で、ぬるりとあちこちを赤く染めながらも、真理は全身についている小さな切り傷と、特に深い手首の傷に気付きました。
「自殺か？　いや……」
『うん、きっと違う』
「そうか。それじゃ間違いないな、千佳姉」
『うん、間違いないね』
　ずるり。ずるり……ずる、ずる、ずる。
　ぴちゃ。
『彼女が、みんなをここに呼んだ』
　ゆらり、と。少女は、手を伸ばします。真理へ。
「……ああ。うん。安心していいぞ」
　まるで、縋るように。助けを求めるように。震えながら。
　手を。
「私が、救ってやろう」