【本日は、臨時休業日】

　このところの激務はちょっと度を越していると、深倉 理紗子は思います。
　内科医でありますところの理紗子の毎日は、実に多忙かつ濃密です。昨夜も夜半近くまで病院に詰めて、帰りがけに少しだけ、と思ってお酒を飲んだら、ストレスからでしょうか。これが思わぬ深酒となってしまい……いえまぁ、それもいつものことではありましたけれど。
　ともかく目覚めたら、やっぱり二日酔い。ずきずきと痛む頭を抱えながら、ああ今日も仕事にいかなきゃ、シャワーを浴びて頭をしゃっきりとさせないと……なんて。
　彼女が異変に気付いたのは、そんな風に考えた時でした。
（……あ、あら？　浮いてる？）
　自宅の寝室を満たす水。そしてその中に、自分が浮かんでいるというこの状況……けれど理紗子は、不思議とそれを、恐ろしいと思うことはありませんでした。まだいささか寝ぼけていたのもありましたけれど、それ以上に理紗子にとって、水というのはごく近しい存在です。
　中学生の頃から今に至るまで、ずっと続けている水泳のおかげで、泳ぎは大の得意！　過酷な医者の生活をどうにか続けていられるのも、仕事の合間にスポーツセンターのプールへ泳ぎに行き、体力づくりをしているからかもしれません。
　もっともこのところは、あまりの忙しさに、そういった暇すら見つけられないほどではありましたけれど……だからこそ、なのかも知れません。
（……そうよね。最近、忙しすぎたもの。たまにはこんな夢を見て、癒されたっていいわよね？）
　日々に疲れた理紗子、一心に仕事へ打ち込んでいる彼女のための、これは束の間の夢。
　そう、思うことにしました。
（そうと決まれば、思いっきり満喫しないと！　いつ目が覚めてしまうか、分からないものね）
　このところは着る暇も無かった、愛用の競泳水着に着替えたら、理紗子はマンションの窓を開いて、思い切り外へと飛び出しました。
　瞬間、目の前に広がる……この、美しい海！
　目まぐるしい毎日に気が急いて、気に留める余裕も無かった街並みを、こんな風に改めて眺めるとは、思ってもみなかったことです。きっと彼女の勤める総合病院も、今この時ばかりは、青い海の底へと沈んでいるのでしょう……そう考えたら、何だかちょっぴり、晴れやかな気分。
　夢だと思えば、街中を水着で通り抜けていくのだって、恥ずかしくありません。気兼ねなく、思うがままにすいすいと、理紗子は泳ぎ回ります。いつものスポーツセンターのプールに比べたら、この海のなんて広いことでしょう！
　街の建物の間をするりとくぐり、思い切り、飽きるほどに泳いだら。あとは、うっすらと海面から差し込むあたたかい陽光を浴びながら、ゆらゆら。
　理紗子は身体中から力を抜いて、きらきらと輝く魚たちを眺めながら、何も考えずにぼんやりと、海を漂います。
「……がむしゃらに頑張ってきたんだもの。たまには、こんなご褒美があったって……いいわよね」
　自分の中で凝り固まった何かが、すうっと解けて流れていくのを、理紗子は感じました。



「うん。まず、麺が打てませんよね。打てたとしても、伸びてしまうだろうし。つゆだって注げないし……海水味の蕎麦はちょっと、いただけませんよね」
　うーむ！　と首を捻りますけれど。
「うん、無理ですねこれ。おじいちゃんもおりませんし……本日の蕎麦屋『すすきの』 は、お休みですねー」
　海中でお蕎麦を打つのは、どうやら素直に諦めたほうが良さそうです。
　とまぁ、お蕎麦屋さんの娘さん、薄野 五月。せっかくのお休みですので、彼女は海中散策へと出かけることにしてみました。店主であるおじいちゃんの姿も見当たりませんし、今日くらいお店のお手伝いをサボったところで、怒られてしまうことも無いでしょう。
　海の底の参道商店街を、五月はひとり泳いで、見て回ります。
「やあ、海の寝子島というのも、美しいものですねー。おお、水面から届く光が帯のようり折り重なって、綺麗です……」
　いつも見慣れているはずの商店街、その変わりようが新鮮で。広がる美しい光景には、のんびり屋の五月の胸だって、実に和むというものです。
「不思議な現象ですねー、水の中なのに、呼吸もできて言葉も話せるなんて。ああ、こんにちはお魚さん……」
　と、脇を通り抜けて行った南国風味の色鮮やかな魚に、声をかけてみたところで。
「……うーん……」
　五月はこの現象を楽しみながらも、どこか落ち着かないような、そわそわとした気分もまた、自分が感じていることに気付きました。
　何せこれが、海の中。ぐるりと周囲を見回してみても、人気はありません。声は出せても、それを伝えるべき誰かは見当たりません。
　いつもなら賑やかに人々が行き交い、騒がしくも活発な営みが行われているはずの商店街が、今では見る影も無く、しんと静まり返っているのです。
「……皆さん、どこへ行ってしまったんでしょうかね？」
　水の音しか聞こえてこない街並みを、誰かに出会えないものかという期待と、一抹の不安を抱えて、五月は泳ぎます。
「それとも……私のほうが、どこかへ来てしまったんでしょうか？」
　神魂の不思議、こうして目を見張るような光景を見せてくれることには感謝しながらも、そんな感覚を誰とも共有できないことは、五月にとってはどうにも味気なく、寂しい気がしてくるのです。
　ひしひしと孤独を噛み締めながら、ゆらゆら……泳いでおりましたら。
「あら、他にも人がいたのね。こんにちは」
　ふいにかけられた声に、振り向けば。そこには、水着を着た女性……理紗子の姿がありました。
「ああ……こんにちは。良かった、私ひとりでは無かったんですねー……ああいえ、別に寂しかったとかでは無いんですけど、ええ全然まったく」
　口ではそう言いながらも、内心、ほっ。五月は、胸を撫で下ろしました。



　海中にて出会った五月と理紗子は、しばし二人でゆらりゆらりと漂いながら、
「へえ、深倉さんはお医者さんなんですか。すごいですねー」
「そんなことないわ。医者のお仕事なんて、忙しくて休む暇も無いし、キツく当たってくる患者さんもいるし、もうストレスが溜まって……」
　なんてついつい、年下の女の子へぽろぽろと、愚痴を語ってしまいそうになる理紗子。今日のところは、そういったモヤモヤはひとまず、忘れておきたいわけでして。
「ええと……あなたは、高校生かしら？　このあたりの人？」
「はい、寝子高生ですー。実家はそこの参道商店街で、お蕎麦屋さんをやってるんですよ」
　ぴ、と五月は指差して、青い海水の向こうにある自宅の方向を示します。
「あ、今日はさすがに、お店はお休みですけど」
「ふふ……そうよね。みんなお休みよね、こんな日は」
　目の前に広がる海は雄大で、その下へ佇む寝子島は、ひっそりと静まり返っていて。
　五月にはどこか寂しく思えていた街並みも、けれどこうして誰かと他愛の無い会話を交わすだけで、再び色鮮やかな美しい光景に見えてくるのですから、不思議です。
　五月の示したほうをぼんやりと眺めて、理紗子がぽつり、言いました。
「この夢が覚めても。あなたのお蕎麦屋さんは、あそこにあるかしら……？」
「夢、ですか。そうですね、ええもちろん、いつでもあそこに。あなたのそばに、蕎麦屋すすきのーすすきの～♪」
　唐突に歌いだした五月。理紗子はぷ、とちょっぴり吹き出して、
「なあに、それ？」
「うちのテーマソングですよー。私のオリジナルなので、他に誰も歌いませんけど」
　可笑しくてつい、くすくすと笑ってしまいます。
　飽きるほどに泳いだ後に、こんな風におしゃべりをして。理紗子にとっても、今日という日はこの上ない息抜き、癒しの一日となったようです。
「そうね。いつかあなたのお店に、お蕎麦をいただきにいこうかしら」
「はい、ぜひ！　お待ちしておりますよー」
　その後も二人は、そんな風に笑いながら、のんびりと海の寝子島を楽しみました。