黄昏空のその向こう｜リアクション

黄昏空のその向こう

　音羽紫鶴は、人外の妖が逃げ惑う夜の町を悠々と歩く。情けない悲鳴上げて必死の形相で石畳の路を駆ける彼らを灰の瞳で睥睨する。

　自室に居たはずの己が不意に朱色の橋に立っていても、天狗面の男から鬼に記憶を奪われると聞かされても、紫鶴の唇に浮かぶ笑みは消えなかった。むしろ笑みを深めさえして橋を渡り山門を潜り、大通りに立った。
（これもまた、寝子島特有の面白い現象のひとつかな）
　足元を駆け抜けようとした猫ほどの大きさの灰色鼠の進路を何気なく塞ぎ、慌てて右往左往する様子に瞳を細める。
「記憶を奪う、か」
　草履の足を上げ、大鼠を逃す。泣き喚いて逃げる鼠には目もくれず、立て込む家々に挟まれた小路から狭苦しげに現れた背の高い鬼を楽しげに見遣る。
「いいよ、面白そうだ」
　不敵に笑み、紫鶴は着物の裾を翻す。
「鬼さん、こっちだ」
　からかうように言い、見通しの良い大通りを走り出す。
　駆けながら振り返る。鬼の身体の大きさと足の遅さを確かめる。
（けど、あの長い手は厄介だ）
　無闇に振り回す腕に掠られもしない距離を取り、石畳の大通りを走る。あの腕に掴まれば、己の記憶が奪われる。それがどんな記憶なのかは分からないが、
（……奪われる、というのはどんな気分だろう）
　物心ついてこの方、何事もそつなくこなしてきた少年は退屈そうに瞳を細める。
　背後で鬼が低く唸る。少年に追いつけぬ己が鈍い足に焦れて吠える。
　耳をつんざく鬼の声にも表情を揺るがせず、紫鶴は距離を保ったまま背後を振り返る。鬼と向き合う。
「空で鬼ごっこもしてみないかい？」
　幼子に言うように笑い、右足で三度、大地を叩く。
　瞬間、紫鶴の背に白鶴の翼が広がる。纏うた衣服を傷つけもしない不思議の翼で、紫鶴は町の空に広がる闇へと飛び立つ。
　地面で地団駄を踏んで暴れる鬼の頭上高くに翼を広げ、ゆったりと弧を描いて舞う。己に向けて精一杯に手を伸ばす鬼を見下ろす。
　鬼の悔しげな形相は、何故か兄を連想させた。もっとも、兄はあんなに醜い顔はしてはいないが――
　――にいさん
　幼い頃は憧れていた。先を歩く優しくて何事にも秀でた大きな背中をいつも追いかけていた。
　兄は、身体が弱かった。
　兄が寝込む度、枕元に座り込んで泣いて困らせた。兄が困った笑顔浮かべて布団から腕を伸ばし、優しく頭を撫でてくれるのが大好きだった。
　――ひゃくてん、とれた
　――さかあがり、できた
　兄の手で優しく頭を撫でてもらいたくて、褒めてもらいたくて、兄の背を追いかけるように勉強も運動も芸事も頑張った。頑張って、頑張り続けて、いつの間にか兄の背を通り越していた。
　気がつけば、兄は頭を撫でてくれなくなっていた。
　疎ましいものを見るようなまなざしだけを向けるようになっていた。
（……僕は、奪う側だった）
「こっちだ」
　鬼を誘い、家屋の屋根に舞い降りる。鬼に向け、背の白く華奢な翼を大仰にはばたかせ、地面を惑うしかない人外の者達を見下ろした視線の先に、家々に挟まれた小路の影にひっそりと蹲る短い黒髪の女を見た。
　瓦を踏む紫鶴の足音に、女が白いうなじをもたげる。一筋だけ雫の跡を残す白い頬と濡れた灰色の瞳が凄絶なほど美しい女は、夜空と白翼を背負って立つ紫鶴に然程の関心を見せず、路地の向こうへと冷めた瞳を向ける。
　唸り声上げて高鬼が近づいている。
「鬼さん、こっちだ」
　暗闇にひっそりと佇む女から視線を外し、紫鶴は殊更に大きく手を叩く。女が居るのとは反対の方向に向けて翼をはばたかせる。
　鬼が必死の表情で両腕を空へと伸ばす。三本指の爪が宙を掻く。
「……君が、」
　冷たい風が渦巻く空の上、紫鶴は心底つまらなさそうに鬼に向けて呼びかける。挑発するように白鶴の翼をはばたかせ、自在に空を舞う。
　紫鶴の心を占めるのは、寝子島に向かう前、挨拶に伺った病床の兄が見せた冷たい表情。
　病を気遣う己を病に倦んだ青褪めた顔で見詰めて、兄はけれど旅立つ己に言葉のひとつもくれなかった。忌々しげに、ほんの僅かに瞳を歪めただけだった。あの表情ばかりが脳裏に焼き付いて離れない。
「君が僕を捕まえたら、この記憶はあげるよ」
　優しくて秀才であった兄にただ褒めてもらいたくて、懸命に兄の背を追い駆けた、その記憶。
　その結果、知らず兄を追い越していた。音羽家の跡継ぎたる兄から、気がつけばその跡継ぎの座さえも奪おうとしていた。
（僕は）
　兄の居場所を奪った。
　憧れだった兄からすべてを奪った。
　紫鶴に追い縋ろうとする鬼の手は、紫鶴には届かない。

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黄昏空のその向こう

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