清かな満月の下、仄かな燈籠の光を浴衣の足元に散らして、神野 美野梨が長い黒髪を秋風になびかせる。
「ロマンチックだね」



　月を見に行こうと誘ってくれた新井 すばるに声を掛けられ、美野梨は眼鏡越しの茶色の眼を生真面目に瞬かせる。出掛ける少し前までは普段着で行こうと思って居たが、昔着ていた浴衣を思い出し、引っ張り出して着付けて来た。浴衣には草履でしょうと悩んだものの、展望台までは月夜の登山道。
　多少変かもしれないが、山道を歩くのに草履では埒があかない。
　寝子温泉までは草履で歩いたが、展望台まで続く山道を歩く今は、替えにと持って来た動きやすい靴を履いている。草履は手提げの袋の中だ。
「灯篭が点いているから明るくて安心ね」
　天文部部員でもある美野梨は、月がよく見える展望台へと足を早める。
「月は展望台でゆっくり見れるでしょう」



　展望台に急ぐのは月を見るため。普通の女の子らしいことを苦手とし、合理主義な美野梨に、すばると過ごす月見の夜をデートだと思う意識は薄い。ほとんどないと言ってもいい。
　燈籠は足元を照らすためのもの。月はその変化を観察すべきもの。
　幻想的な風景にも冷静な美野梨に、すばるは眼鏡の奥の明るい茶色の眼を楽しげに笑ませる。
「あ、光るススキ発見」
　燈籠の道や月影の森、月明かりに凛と伸びる美野梨の背中や物静かな横顔を眺めているそのうち、美野梨の向こうの森に淡く蒼白く光るススキを見つけて、
「綺麗だね」
　すばるは警戒もせず無防備に近寄る。
　そう言えば、歌謡曲好きな父親の持ち歌に、ススキを簪に、という歌があった。ふもとの寝子温泉の宿にも似合いそうな歌だっけ、と詳しい歌詞を思い出す。
（神野さんの浴衣にも似合いそうだ）
　一本もらおうかな、とススキに手を伸ばす。上弦の月どころか満月ではあるけれど、手折って美野梨の髪に挿せば、きっと歌のように色っぽいに違いない。
「……興味深いわね」
　ススキに触れようとするすばるの傍らに立ち、美野梨がひょいとススキを覗き込む。蒼白い光放つススキを観察しようと瞳を細めて、
　ふと。光が消えた。
　ススキの蒼白い光も、道の左右を彩っていた燈籠の小さな炎も、全て絶えた。ただ、空から降る月の光ばかりが異様なほどに冴える。
　白く蒼く照らし出される月影の森の中、すばると美野梨は顔を見合わせる。
　森の深く、哄笑する女の甲高い声が木霊する。呼応するように遠くから近くから、獣の遠吠えが木々を縫って響き渡る。
　すばるはススキを取ろうとしていた手を下ろす。周囲に視線を巡らせて、木洩れ日のように木々の梢から落ちる蒼白い月光の斑の中、低い唸り漏らして二本足で立つ獣の姿を見た。
「狼男ね」
「神野さん冷静だね」
　ぴんと立った二本の獣耳の下には、深い恨み抱いた金色の瞳。鋭い爪の生えたけむくじゃらの腕を振り回して吠え立てるその姿には、友好さの欠片も見当たらないが、美野梨は狼男に対して一歩踏み出す。
　ねこ科の生物と思念交わすことのできる己がろっこんを思う。狼は犬科だが、
（ダメ元で試してみる？）
　生物と己がろっこんに対する研究者魂を燃え上がらせ、今にも襲い掛かって来そうな様子見せる狼男にじりじりと近づこうとする美野梨の肩をすばるは掴む。
「もう少し危機感をもとうか？」
　ほら、とすばるが示すが先、狼男が二人を獲物と定めて地を蹴る。それを合図に、あちこちの茂みからも何体か、人と狼を混ぜ合わせたような姿持つ人外の妖が二人目掛け飛び掛る。
「あぶない！」
　美野梨を背に庇うすばるの腕に狼男が食らいつく。そのまますばるを引き摺り倒そうとする狼男の頭に美野梨の草履入りの手提げ袋が直撃する。
「すばるくん！」
　美野梨の脳裏を過ぎるのは、噛まれた者も狼男になるという説。
（そうでないまでも狂犬病が怖いわ）
　狂犬病罹患者を狼男としたという説もある。
「大丈夫たいしたことないよ」
　狼男の牙から逃れ、すばるは噛まれた腕を押さえる。
「好奇心は猫をも殺すってね。気をつけて。ま、ボクがそばにいるかぎり安心していいよ」
　おどけた軽い口調で言い、狼男達の動向を探る。
「おっと来なすった、逃げるよ」
　美野梨の手を掴み、すばるは森を飛び出す。月明かりも眩しい山道に戻る。此処が何処かは見当つかないが、見た限りは元の世界の展望台までの道とそうは変わらず見える。となれば、
「見晴らしのいい山頂を目指そうか。登るのが辛ければ背負うよ」
　状況を素早く判断して手短に言うすばるに、美野梨は首を横に振る。
「おぶらなくていいわ、私なら大丈夫よ」
　森から飛び出し、二人から少し距離置いて吠え立てる狼男達を怯え知らぬ瞳で見遣り、美野梨は考えるように首を傾げる。
「狼男の苦手って何かしら……」
　満月の光浴びて変身する狼男ならば、月が隠れてしまえば力を失う可能性もあるけれど、見上げた空には恐ろしく大きな満月がひとつきり。群雲湧き立つ気配は無い。
「獣なら普通に火とか、」
「あいにく火はもってないなー」
「鼻に刺激を与えるとか」
「鼻に刺激？」
　それなら、とすばるはおやつ代わりに持って来ていた自作の辛いちくわを取り出す。我が意を得たりと美野梨は笑う。
「すばるくん、鼻にちくわビームを！」
　美野梨の言葉を受け、すばるはちくわを指先に嵌める。ちくわの穴を吠え立てる狼男達に向けて念じれば、その指先から発射されるは物凍らせる冷たい光。狙い澄ました一撃が一体の狼男の鼻先を凍らせる。情けない悲鳴を上げて撃たれた狼男が地面を転がる。
「やったね神野さんお手柄だ」
　ちくわを嵌めた指先を狼男達に向けながら、すばるは明るい声をあげる。冷凍ビームの使いようによっては彼らを殺すことも可能かもしれないけれど、そこまですることはないだろう。
（ボクらが逃げられればいい）
「では、」
　すばるは狼男達の足元に冷凍ビームを放ち威嚇する。
「三十六計逃げるに如かず」
　怯えて後じさる狼男達にちくわの銃口を向けたまま、もう片方の手を美野梨に差し出す。
「好奇心旺盛な猫さん」
　少し気取った口調で微笑む。
「残念だろうけど日常に帰る時間だよ」
　ともかくも山頂を目指して二人は駆け出す。
　狼男達の悔しげな遠吠えを背に展望台に辿り着いて、二人は無事に元の世界に戻れたことを悟る。月も、世界も、元の穏かな静けさを取り戻している。
　息ひとつ吐き出して、すばるは手近に揺れるススキを一本手折る。
「普通のになっちゃったね」
　傍らの美野梨の髪にそっと挿す。本当は光るススキを髪に飾ってあげたかった。
「あ、でも似合ってるよ」
　ススキの簪を片手に抑える美野梨に、すばるは悪戯っぽく笑む。
「乱れ髪もちょっと色っぽいかも、……なんてね」
　山道を走って乱れた髪を手櫛に梳かし、美野梨は展望台から月を見上げる。月の光を楽しむでなく、観察する眼差しで。
　その時々で形も色も、大きささえも変わる、月。
「……月は不思議ね」
　並んで月を観て後、一人で帰ろうとする美野梨の後をすばるは追う。
「送っていくよ」
　追い駆けて来るすばるを肩越しに見、美野梨は眼鏡の眼をちょっと笑ませた。
「……送り狼にならないでね？」
　からかうでもなく、大真面目な口調で言われ、すばるは眼を見開く。くすり、唇に笑み浮かべる。
（男はみんな狼なのよって？）
　父が口ずさむ歌謡曲を思い出して、
「そういえば」
　すばるは狼男に噛まれた腕を押さえる。傷も痛みも不思議と跡形もなく消えているものの、
「さっき狼男に噛まれた所が熱くて」
「……痛む？」
「何かムラムラしてきた」
「……え？」
「がおー」
　きょとんとする美野梨に、すばるは両腕を掲げて襲い掛かる。壁際に追い詰め抱きつこうとして、寸前で止める。
「って冗談だよ。びっくりした？」
　どこまでも明るく笑うすばるに、真面目な美野梨は真剣に怒ろうとして、小さく噴き出す。月明かりに似て静かに、くすくすと笑い出す。怖い思いもしたけれど、不思議な夜は案外楽しかった。
「さ、寮まで無事にお送りしますよ子猫ちゃん」
　ウインクをしてすばるが差し出した手を、美野梨はちょっと気取った仕種で取ってみる。