己の魂を越えてゆけ｜リアクション

己の魂を越えてゆけ

【柔和の心】

　日々野結衣香が髪の毛をくしけずっていたら、窓の外にいる猫と目が合った。
　そしてうっかり櫛に髪が引っ掛かった。
「あいたっ」
　引っ掛かった時に、はらりと髪の毛が床に落ちた。
　その髪の毛がみるみるうちに膨張を始め、自分ソックリの少女へと変身していく一部始終を彼女は目の当たりにしてしまう。
「あれれ、私が目の前にいる？」

　ドッペル結衣香の手には、大好きな剣客小説作家の小説が握られていた。
　日々野は不思議に思いながらも、目の前のドッペルに色々と質問をした。
　そして、目的を聞いて更に驚いた。
「私と入れ替わる……って。うーん……」
　彼女は困ってしまった。
（そういえば、この部屋に寮生以外の人が入るのは珍しいかも）
　桜花寮住まいの日々野はルームシェアをしている。
　顔見知り以外、自室へ入ることはほぼない。
　彼女はいつも本を読んでいた。
　気が付けば独りぼっち。
　時にはろっこんで呼び出せる戦国時代の名もなき武士の『ござるさん』と２人で過ごすか、どちらかだ。
　孤独ではない。だが、ちょっと寂しい。
　そう考えていると、ドッペル結衣香は小説の角で日々野へ殴り付けてきた。
「ほ、本で頭を叩いたりなんてしてはいけません！」
　だが、彼女の説得に聞く耳を持たないドッペル結衣香。
　すぐに怪我するような攻撃ではないが、本好きの日々野にとって、精神的に堪える攻撃であった。
（寂しくて八つ当たりしてるのかな？　攻撃してくる理由はそういうことかも）
　日々野は攻撃に耐えながら、相手の目を決して逸らそうとしない。
　対して、ドッペル結衣香はとにかく苛立っていた。
　終始無言で日々野を本の角で殴ってくる。
　そこにはどこかやりきれない気持ちが燻っているかのようだった。
「ねぇ、『私』。今の自分に満足していないから、もうちょっとがんばってよって私に言いたいの？」
　ドッペル結衣香の攻撃の手が一瞬止まった。
「……理不尽だと思ったら、怒ったっていいんだよ？」
　ドッペル結衣香は初めてまともに喋ってくれた。
「うん、そうかもしれない。でもね？」
　日々野はドッペル結衣香の手から小説を取り上げた。
「私は怒らない。大好きなおじいちゃんに言われたから。大好きなおじいちゃん直伝の、のんびりほややん怒らないこと。私はこれを守り通す。昔はマジメで気負いすぎるところがあったけど、のんびり屋になって周りを見渡せるようになって、やっと今の『私』になれた」
　彼女の口調は確固たる自信に満ち溢れていた。
「戦うことと怒ることは一緒じゃないですから。あなたの言葉の暴力も、物理的な暴力にも屈しないけど、怒りません。大好きなおじいちゃんが勧めてくれた読書をやめることも絶対にしない。本を武器にするなんてしません。そんなことをしたら、私は『私』に負けてしまう」
　ドッペル結衣香は、それでも日々野に掴み掛っていった。
　まるで駄々をこねる子供のように、必死に泣きそうな顔で日々野を平手で叩く。
　そんなドッペル結衣香を、日々野は優しく抱き寄せた。
「本当は無理してるんじゃないですか？　もうやめよう？　私、これから強くなるようにがんばるから」
「ほん、とう……？」
　ドッペル結衣香の動きが、完全に止まった。
　日々野は答えた。
「うん。怒るだけが全てじゃない。おじいちゃんが教えてくれたことを、今度は私が皆に教えてあげられれば、きっと誰もが笑顔でいられるはずです」
　この瞬間、ドッペル結衣香の影が薄らいでいく。
「……敵わないなぁ。その強さ、忘れないでくださいね？」
　ドッペル結衣香は、蜃気楼の如く消失していった。
「……約束します。ドッペルさん」
　ござるさんに頼らなくても立ち向かえた自分を誇らしく思いながら、彼女は『約束』をしかと胸に刻み込んだのだ。

＜日々野結衣香：その心、柔軟にして破り難し＞