眠れない夜に｜リアクション

眠れない夜に

　天地すら分からぬ真白の世界に、斑鳩遙は立ち尽くす。
　だが、立っていると言うことは足元が地なのだろうと、そう見定める。
　眼を巡らせる。踏み出せばすぐ触れられる近さに、けれど踏み込めぬほどに隔たって、漆黒のグランドピアノがある。その傍らに、
(時任)
　彼岸に発った友人が、真白の世界を埋める全き静寂と共に立っている。
　その姿を見止めた瞬間、腹の底でずっと消えずに渦巻く疑念が唇に登った。
　――何故、死んだ
　発したはずの言葉は、無音の世界に押し潰される。
　己の声は死んだ友人に届かない。友人の死の謎の核心に、届かない。
　せめて、と友人に向け腕を伸ばして、

　伸ばした指先が暗闇を掴んでいる。
　息を吐き出す。腕を落とせば、寝汗に冷たく濡れたシーツに触れた。見慣れた自室の天井を見据えたまま、瞬く。目尻から涙の一滴が零れて、こめかみを幾筋も伝う涙に気付く。顰めた目を冷えた掌で拭う。彼の葬式でさえ、涙は一滴でさえ出なかったのに。
　友を亡くして、けれど哀しくはなかった。
　哀しみではなく、何かをごっそり抉り取られたような喪失感と虚無感があった。それは、あの日からずっと付き纏っている。
　友を亡くしたあの日。
　ピアニストであった時任彼方のファンがヒステリックに号泣する様を、彼の親族が亡骸を納めた棺に取り縋る様を、ただ、不感症に冷えていく心と共、肌を冷やす春先の冷たい雨と共、眺めていたことをふと思い出す。
　あの時の絶望に冷えていくばかりだった心は、今も冴え冴えと麻痺したままに在る。
　時間を確かめる。出勤にはまだ早い。
　夏の寝苦しい夜に起き上がる。
　彼に届かぬ夢を、もう見たくはなかった。寝汗に冷えた顔を洗う。携帯プレーヤーを懐に入れ、イヤホンを耳に嵌めつつ、家を出る。
　夜明け前の紫暗の空気を見据え、誰も居ない道を只管に歩く。
　耳に流れ込むピアノの音が、世界と己を切り離す。
　友の死の謎が隠されてはいまいかと幾度も聞いた、彼の遺作のクラッシックCD。タイトルを、『faraway』。
(遙か、彼方)
　角を曲がる。堤防の先に見え始める水平線を見遣る。
　星空を呑み込んで暗い海を眺めて、唇が歪む。
(俺達の名前が入っているのは偶然か)
　友の応えを得ることは、最早永遠に出来ない。
　潮のにおいを孕んだ風が短く刈った髪を惑わせて過ぎる。夜の静寂を許さず、波音が夜明けの空気を震わせる。
　薄く淡く、空が朝の光に侵されて行くのを横目、堤防を越えて砂浜に下りる。友の奏でる旋律が、波音よりも深く静かに響いている。
(夢の中で能力を使えば)
　そうすれば、真実が見通せたのだろうか。
　想像する。
　ピアノの傍らに立つ彼の腕を取り、逃れられぬようにした彼の眼を間近に凝視すれば。そうすれば、彼の過去を、想いを視ることが叶うただろうか。
　イヤホンを通して、友のピアノが潮騒のように残響を繰り返す。
　繰り返し繰り返し、呪いのように繰り返し見る、あの夢――
　濃紺の波が砕け散る。波の先、永遠に失った友の背中を確かに見て、思わず砂を蹴る。冷たい波に分け入る。背中を向けて静かに佇む友に手を伸ばして、
「……っ、」
　膝を叩く波に己を取り戻す。伸ばした指先に何も掴めぬまま、波打ち際に立ち尽くす。息を零す。肩が震える。
　残響を払い除けるようにイヤホンを外す。
「お前は、」
　掠れた声で風に訊く。
「一体何を伝えたい？」
　聞こえぬ友の声を風に聴こうとする。
　掴めぬ指先。
　聴こえぬ耳。
　狂おしい焦燥と絶望に身を焼き焦がされながら、儚く耳を澄ます。白々と明け行く空を仰ぐ。
　返事がないのはわかっている。
　彼は死を選んだ。親友である己に何も告げず、自らを殺した。　
　返事がないことを痛感しながら、それでも、遙は風に耳を澄ませ続ける。