眠れない夜に｜リアクション

眠れない夜に

　夜風にスカートの裾が揺れる。
　スマフォだけを片手に持って、天吏は人気のない夜明け前の道を、急ぐでもなく歩く。
　朝を前にして尚更暗い濃紺の闇に、ぽつりぽつり、外灯の光が細長く落ちている。
　その光の中、こちらに向けて足取り軽く歩いてくる同年代の男子を見止めて、けれど天吏は茫洋とした表情を僅かも崩さない。
「あ、」
　相手が天吏を目にして、どこか怯えた風に立ち止まっても、気にも留めない。足も止めない。
「お、おはようございます……」
　茶色の明るい瞳を左右に惑わせ、消え入りそうな声で発した挨拶も、
「き、今日は良い天気にな、なりそうです、ね……」
　必死に会話を繋ごうとした言葉も、聞こえないかのように傍らを通り過ぎる。ただ、彼が空を示したその間際だけ、ちらりと空を仰いで。
　夜の空に、鳥の姿は見えない。
　人工の光が多いこの辺りからでは、夜に舞う鳥も見ることは出来ない。
　鳥の見えない空に興味はない。人になんて興味はない。
　人の作り出す光の少ない場所がいい。人の住む町から遠い場所がいい。できれば、空を見晴るかせる場所。
　惑いの無い身軽な歩みで、天吏は寝子島高校の前を過ぎる。鳥の羽ばたきを追うに慣れた健脚をエノコロ岬に運ぶ。岬の突端からなら、きっと空の鳥もよく見える。
　岬に至る夜道の暗闇を、スマフォ画面の明かりで照らすこともなく過ぎる。光で照らせば、森に眠る鳥達をきっと起こしてしまう。
　岬の空に吹く風に髪と吹くを舞わせ、町の光を背にして空を仰ぐ。灯台の光が時折空を過ぎる。それでも、然程目障りではない。
　スマフォアプリの星座早見盤と空を照らし合わせ、探すは空に輝く星の鳥。
（こと座α星、わし座α星、はくちょう座α星）
　三つの星が示すのは夏の大三角形。
　大三角形を作る星を内包する星座の形を、瞳に何の感動も宿らせぬ静かな鑑賞の色で、どこまでも冷徹な観察の眼差しで辿る。
「美しいな」
　不意に人の声を耳にしても、天吏の瞳は空を仰ぐことを止めない。
　空の鳥を見つめる視界の端、岬の暗闇が静かに揺らぐ。ほとんど傍らと言っていい位置に、彼は立っていた。
　いつからそこに居たのだろう。
　闇に紛れて見過ごしていたのだろうか。
　そんなことは露ほども思考せず、天吏は白い指先を空へと向ける。
「ベガ、」
　淡々と告げられる星の名前を、
「アルタイル、」
　指先で示される一等星を、
「デネブ」
　有祈はその場に佇んだまま、未だ暗い空を物静かな視線で追う。
　マンションを脱け出し、ネオン輝く繁華街の人込みを擦りぬけ、光に疲弊すれば闇の濃い路地に身を紛らわせ、そんな風に夜の街を歩くことはあった。
　こうして静寂の空を見ることはなかった。
「夏の大三角形」
「……美しいな」
　傍らに立つどこか儚げな少女の、もしかすると此方に向けてすらいないのかもしれぬ無感情な声音に、有祈は頷く。
　空に輝く星々を、暗闇に零れて溢れる星の川を、美しいと思う。それは間違いない。だが、
(私には、酷く眩しい)
　苦手な陽の光を仰いだ時と同じように、瞳に力を籠める。暑さを感じさせない黒手袋の手で眼を庇う。
　岬のその先に広がる夜の海が休むことを知らぬ潮騒を響かせる。
　波を撫でた風が吹き上がり、隣の少女の柔らかな色した髪を乱暴に巻き上げる。
「光の強い街からだと大三角の星しか見えないけれど、ここからだとベガのこと座も、アルタイルのわし座も、デネブのはくちょう座も見える、でも」
　少女は何かを見定めようとするかのように瞳を細める。
「鳥には見えないね」
　落胆するでもなく、観測の態を崩さずに少女は呟く。
「そうだな」
　有祈の同意の言葉も、届いているのかどうか。
　鳥の囀りを聞くかの如く、有祈は少女が語る夏の大三角の話に耳を傾ける。
　そうしているうち、空に占める夜が蒼く碧く、遠ざかって行く。
　夜に冷えた風が、まだ見えぬ太陽の熱を帯び始める。
　闇色の海がいつか払暁の光集めて青く輝く。満天の星が陽の光に呑まれて消え失せる。
　夜が、明ける。
(この島は私には美し過ぎる)
　海を、島を、白く眩く染め上げる陽光を拒んで有祈は瞳を固く閉ざす。
　涼やかな潮風の匂いも鮮やかに昇る朝日も、
(私には不釣合いだ)
　光を避け、闇に夜に逃げ込みたくなるがその証。
　己をそう断じて瞳を開けば、傍らに佇んでいたはずの少女の姿は何処かに消えて無かった。
　岬の後に広がる森へと視線を巡らせる。そろそろ主の不在に気付いた従者が騒ぎ始める頃だろうか。
　朝日から逃れ、有祈は踵を返す。

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