化かし狐のお礼参り｜リアクション

化かし狐のお礼参り

　夏朝は、自分が暗い森の中に立っていることに気がついた。一人きりではない。暗い暗い翳りの中に、こちらに向かってくる少女がいる。その顔は自分自身とまったく同じだ。
「僕、なの……？」
同じ顔。だが表情はまるで別人のようだ。冷たい光を宿した瞳、硬く引き結んだ口。凄みさえ感じさせるもう一人の夏朝は、夏朝自身を圧倒する強い口調で語りかけてきた。
『島はいいよね。寝子島のみんなは、"僕"を否定しないいい人たちだもの。……"あいつら"とは違う』
（否定って、何を？　あいつらって誰!?）
問いかけたいのに声が出ない。見知らぬ表情をする夏朝は、記憶にないどこか違う学校の制服を着ている。（こんな制服、知らない、知らない！　君は誰？　どうして"僕"なの!?）
すべて聞こえている、というようにもうひとりの夏朝はぞっとするような冷たい笑みを浮かべた。自分とまったく同じ顔が見せる残酷な表情に夏朝は震える。
『だから守らなきゃ。何としても、みんなを。みんなが過ごすフツウを守らなきゃ』
見知らぬ自分が近づいて来る。顔を間近に寄せ、首を傾げて妖しく、冷ややかに笑いかける。
『自分の世界、自分の大切な人たちに害をなす存在は、すべて"敵"』
（違う！）
『ほら、目の前にも"敵"が……フツウを守りたいなら……この"敵"を……』
（違うよ！　狐さんは敵じゃないの……！）

「くくく。尾を一つ失ったとて、俺の幻術に曇りはないわ。小娘一人捕らえるなど……」
　幻術に飲み込まれ、少女は一歩も動けない。摂狐は己の手際に満足しながら、最後の一つとなった稲荷寿司をほおばった。どんな幻を見ているかは想像がつく。人間はたいてい、心のなかに何かを隠し持っている。表に出している意識が薄れてしまうだけで、その隠していたものが簡単に顔を出すのだ。そして実におもしろいことに、自分の都合で隠していることすら忘れている。
（汚泥のようなそれを、人間は『心の闇』とかいう口当たりの良い言葉でごまかそうとするのだったな）
摂狐は人間の愚かしさを心から嘲笑した。だが、術にはまった夏朝を見ているとどうにも落ち着かない。幻夢の世界で彼女は何かと対峙し、恐れ、涙を浮かべているのだ。「違う、違う」とつぶやき、何者かを必死に守ろうとしているようだ。
「違うよ！　狐さんは敵じゃないの……！」
絞り出すように発せられた声に、摂狐ははっとする。ほとんど反射的に夏朝に駆け寄り、額と肩に手をかけて突き飛ばした。
「きゃっ！」
夏朝が衝撃と共に幻から醒めると、そこには怒りの表情を浮かべた摂狐がいた。顔に酢飯の粒がついている。
「お前のようなちび一人、幻で取り殺してもおもしろくもなんともないわ。立ち去れ！」
「助けてくれたの？　せっこちゃん……」
「やかましい！　あっちへ行け！」
飯粒をぐっと手でぬぐうと、あっちへ行けといった当の摂狐は、自分から走り去って行ってしまった。
「せっこちゃん……」
なぜ幻術を解いてから行ってしまったのだろう？　夏朝はその答えを聞きたかった。