化かし狐のお礼参り｜リアクション

化かし狐のお礼参り

　少女が出歩くにはいささか暗くて不安な道を、恵御納夏朝は小さな手提げを手に歩いていた。あたりを見回しては何者かを探し、時々立ち止まっては携帯をのぞき込む。夏朝がチェックしているのは『ねこったー』の狐目撃情報だ。
「狐さんは二人いるのかぁ……どっちかに会えないかな？」
夏朝は空を見上げた。オレンジ色の夕焼けはとうに消えて、星がちらちらと瞬いていた。
（仲良くなるのは難しくても、話とか聞けないかな？　お話している間は、仕返しとかお礼参りも遅れると思うし）
夏朝には狐がそれほど悪い存在とは思えなかった。きっと何か、理由があるのだ。それが人間には理解しがたい言い分だとしても。手提げの中には狐の好物とされる稲荷寿司と、ひょっとしたら甘いものが好きだった場合のことを考えて、クッキーと饅頭。一緒においしいものを食べれば怒った妖怪だって心が静められるかもしれない。

　と、突然横の細道から小さな人影が飛び出してきた。かなりの勢いでどしんと夏朝にぶつかる。
「きゃっ!?」
危なく手提げを落とすところだった。夏朝は両手でしっかりと手提げを抱え直した。
「くそっ！　人間どもめ、どこまでも卑怯な！」
ぶつかってきた人影は、少年の姿をしていた。腰からは見事な狐の尾が二本生え出ており、体のあちこちには小さな傷がついている。
「だ、大丈夫？」
ポケットからハンカチを取り出し、夏朝は血の流れる奇妙な少年のひじに手を伸ばす。
「触るな！　この摂狐に気安く手をかけるとは！」
目を吊り上げ怒る狐の少年は、乱暴に夏朝の手を払いのけた。ハンカチがわずかな音を立てて舗装道に落ちる。夏朝は一瞬驚いた顔をしたが、黙ってハンカチを拾い上げ、地に着いた面を裏に返して摂狐の傷に当てた。
「初めまして。狐さん……でしょ？　僕、えみな・かーさっていうの」
怯えず逃げもしない少女を、摂狐と名乗った異形の少年は苦い表情で見つめている。少しでもおかしなことをしたら取って食うといわんばかりの形相だ。夏朝は手提げから包みを一つ取り出す。
「稲荷寿司作ってきたけど、食べる？」
狐の鋭い嗅覚は、差し出された食物に何ら危険なものが入っていないことを突き止める。それどころか、甘辛い油揚げの香りと、甘さをきりりと引き締める酢飯の香りは、抗いがたい魅力となって疲れ果てた摂狐を襲った。
「よこせっ！」
摂狐はすばやく包みを奪い取ると飛び出してきた横道に急ぎ戻り、物陰に身を隠すようにして稲荷寿司を食べ始めた。飯粒の飛び散る乱暴な食べっぷりはいかにも獣である。夏朝もまた物陰に身を潜め、夢中で栄養補給につとめる妖狐を隣で見ていた。
「せっこちゃん……だっけ？」
「ほうだ。ふぁが名は摂狐、齢九十年の妖狐よ。みだりに人間が口にしていい名ではないはらな」
口いっぱいに稲荷寿司をほおばったまま摂狐は答える。味が気に入ったのか、剣呑な表情は影を潜めている。
「せっこちゃんは、どうして人間にお礼参りしたいのかな？」
夏朝がそう尋ねたとたん、狐の少年の表情はたちまち険しくなる。
「何を言う。先に仕掛けたのは人間たちだ。この傷を見てわからんか」
「そんな……せっこちゃんもおじさんだけでなく、川でみんなを化かしたでしょ？」
「のこのこしゃしゃり出て来たからだ。お前もだ！　わざと俺の前に立ちふさがったな！」
「違うよ、僕たちは敵じゃない……」
「嘘をつくな、お前も所詮は人間だな！　見ろ、俺の眼を！」
強い口調に思わず目を向ける。その瞬間、夏朝は摂狐の幻術に囚われていた。