ねこの消えた日｜リアクション

ねこの消えた日

　寝起きは悪くはないが、弘明寺能美子は今日も不機嫌な顔だった。こんな早くから曇った表情でいるのにはわけがある。一人で楽しむはずの朝のまどろみの中に、勝手に見知らぬ者の声が入って来たからだった。
『旅に出ます。探さないでください』
起きれば誰もいない。いつも通り、能美子はベッドにひとりいた。うつむき額に手をあてる。長い黒髪がさらりと流れて、すらりとした能美子の肩から胸へと流れた。
（変な声が聞こえたけど、ばっかじゃないの……）
その時、インターホンが鳴る。宅急便のお届けだ。能美子は急いで身支度をしてドアを開ける。
（ああもう、めんどくさい。サインなんてひらがなでいいわよね）
自分で書いた文字を見て、眠そうに顔をしかめていた能美子の目は、信じられないと言った風に大きく開かれていった。

『ぐみょうじのみ■』

「……は？」

　その後の僅かな記憶は飛ぶ。能美子は受け取った荷物も投げ出し、どこにぶつけていいか分からない怒りを爆発させていた。
「なんなのよなんなのよ！　のみ■って誰!?　よりにもよって、最悪な字面になったじゃない！」
変な声の正体。旅に勝手に出た、変な声がもたらした結果。それがようやく判明したわけだが、知ったところでどうにもならない。このまま学校へ行けばどうなるのか。一日中「のみ……ちゃん」などと呼ばれて過ごすのには耐えられそうになかった。能美子の頭に浮かぶのは、最悪な想像ばかり。じたばたと悶えていると、一通のメールが届く。最近何かと共に行動することが多い、御剣刀からだった。
『文字が旅に出たらしい。弘明寺の方はどうだ？』
『最悪よ。自分の名前が書けなくなってるんだから』
携帯の電話帳を見るとなるほど、最後の文字がもやもやとした穴になっていた。刀は苦笑いする。

　ほとぼりがさめるまで家からは一歩も出るもんかと決意していた能美子だが、刀に呼び出されて旧市街まで出てきていた。ひとりで僅かに、ほんの僅かにだ、心細かったこともあるし、刀は能美子を姓で呼んでくれることもありがたかった。それに、刀はずいぶん今回の事情を把握しているらしかった。共に行動すれば、より早くこのおかしな事態をなんとかできるかもしれない。
「結局なんなのかしら？　あの■え……」
「文字の発言らしい。二つの文字が、何らかの理由で旅に出て、結果その二つに関係する単語はその部分が抜け落ちてしまう。発音も筆記もできなくなる」
「その一つが、私の名前にある、と……」
能美子は憂鬱そうにため息をついた。このままでは自分の名前を忘れてしまいそうだ。
「確か、夜には戻ると言っていた気がする。それまでなんとかすればいいんだ、つまり……」
刀は口から出かけた、発音できない言葉を飲み込むようにして言い直す。
「にゃーにゃーを表す例の文字が旅に出たので、戻るまでいろいろな人たちの手助けをしよう。うん、意味が分からないな」
「まったくだわ。それで、何をするつもりなの？」
「まず俺たちは、旅に出た文字が何か知っている。それを踏まえて、その文字を使わない工夫をしながら会話をしよう。不便な思いをしている人がいたら、問題が解決するまでなんとか手助けするんだ」