ねこの消えた日｜リアクション

ねこの消えた日

「旅に出ます。夜にはもどります。探さないでください」

　そんな声がはっきりと聞こえて、恵御納夏朝は目を覚ました。知らない声。そもそも、今自分が聞いたのは『声』だったろうか？　音ではないのに、確かに届いた誰かの意思。それを夏朝は受け取った。寝ぼけまなこで、時計を探る。起きる時間にはまだ早い。猫が大好きな夏朝らしい、猫の絵柄のついた目覚まし時計が、指先に押されて下に落ちた。
「あっ……■■さん時計さん、ごめんなさ……!?」
声が出ない。いや違う。夏朝は自分が何を言ったのか思い返した。

――あの言葉が、あの言葉だけが、出てこなかった。

「■■さん」
もう一度。
「■■、さん……」
背中がひやりと冷たくなった。

　その後のことはよく覚えていない。習慣のなせるわざか、気づけば夏朝はきちんと身支度を整えて高校に登校して来ていた。高校の名前は、■■島高等学校。門柱に刻まれた、最初の二つの文字がぼやけて見えない銘板を見つめていると、得体の知れない居心地の悪さ、気味悪さが這い上がってきた。
（ないのはあの文字なんだ……僕にとって、大切な、大切な……）
おろおろとあちこちを探り、プリントやパンフレットを確かめた。黒板も、印刷物も、ところどころがぼやけて穴のようになっている。五十音図を見ると、二つの文字がもやもやと世界から隠されてしまっていた。『け』の下と、『ぬ』の次。それが何なのかどうしても思い出せない。

「■え■え、■れどういう■となの？　■わいよ……」
「■えは出るのに、出て■ない音があるんだ」

（困っているのは僕だけじゃないんだ。みんな同じことになってる……）
ほんの少しだけ、ほっとする。みんなで探せば、この問題を解決する方法が見つかるかもしれない。自分だけがこうなのではないと知るだけでも、朝体験した絶望感から救われる思いだった。だがその安堵もすぐにしぼんでしまう。いったいこれはいつまで続くのだろうか？　自分は、世界は、ひょっとしたらずっと大切な文字を、音を、失ったままになるのではないか。そう思うと不安でたまらないのだった。

　今日も穏やかな日になるはずだった。なのに周囲は騒がしい。秋ノ宮こまちはその様子にただならぬものを感じ、尋ねてみることにした。
「すみません。何かあったのですか？」
「それがわからないんだ！　■とばをしゃべろうとするとおかしな■とに」
「■の■■島に、いったい何が起きているの!?　助けてよ！」
軽いパニック状態に陥っているものもいる。誰の言葉も、突然何かのタイミングで、とぎれとぎれになって聞こえない。聞いているうちに、こまちは特定の音が抜け落ちていることに気がついた。
「秋ノ宮 ■まち……」
自分の名をつぶやいて確信する。落ちている音はふたつ、そのうちひとつはこまちの名に宿っている音なのだ。さまざまな不思議が起きるこの島だが、このようなことは初めてだ。自分の名が欠けていると言うのは、想像以上に嫌な感じがするものだと、こまちは思う。
（とても大切なものが抜け落ちてしまったみたい……）
不安な気持ちを抱えながら、こまちはそれでも学校へと向かった。

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