猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　花風冴来の心はその小さな姿を大写しにする。姉様と慕う甘えた声、寂しがって涙を浮かべる瞳、いとおしいその姿。彼女の義妹、花風ももは幻を呼ぶ力場に囚われかけていた。ふらふらと足取りはおぼつかなく、恐怖におびえた表情をしている。
「もも！」
瞬時冴来の思考はひとつの考えに塗りつぶされる。ももを助けなければ、ももを助けなければ、ももを。あれは私を恋しがっている顔じゃない、私を求める顔じゃない。狐のまやかしに囚われかけているんだわ。かわいいもも、記憶を取り戻されたり、川で溺れ死なれたりしたら、私、私、私もうわたしもう……。
「……助けなくちゃ」
冴来はつかつかと野次馬がたかる川岸へ歩み寄る。体格のよい、力の強そうな青年を選んで肩に手を置いた。
「ああん？　なんだ、あんた……」
青年はそれ以上問いかけることはない。問うのは冴来のほうだった。人形のような愛らしい笑みを浮かべ、冴来は青年に『お願い』をする。その言葉が耳に届くと同時に、男の顔からは表情が失われていった。

「お願いを聞いてくださる？　あのピンク色の髪の女の子を助けてちょうだい。この危ない川から遠ざけてあげてほしいの」

　真の思惑はどうあれ、救命に相当する冴来のお願いは『ひと』に対しても問題なく作用した。傍から見れば、ただの『お願い』をしたようにしか見えないだろう。ろっこん『ラブリートリック』の力は、知らぬものには判別できない。男がももに声をかけ、シーサイドタウンへつながる道へと案内して行くのを見届けて、冴来は満足げに微笑んだ。
「さあ、この辺りね」
冴来は静かに目を閉じる。おせっかいな俗人が、危ないぞと声をかけてきたような気がしたが無視した。いっそ耳も完全に防げればいいのに、と思う。
「でもそれじゃ、狐に気づけないかもしれないわね」
呼べば出てきてくれたりしないかしら？　
冴来が願うは、常軌を逸した行動を日々楽しむといういたずら狐に出会うこと。周りの騒ぎや、化かされ男のことなど彼女にとってはどうでもいいことだった。
「いたずら狐さん？　出ていらっしゃいな」
返事はない。
「ふふ。内気なのね。それとも用心深い？　こんな楽しいコト、一人でなんてずるいじゃない。私も仲間にいれてちょうだいな。あなたとお友達になりたいのよ」
じっと待つ。どのぐらい待っただろうか。返事はない。冴来は形のよい眉をひそめる。
「案外、つまらない子なのね。ももをいじめたら……許さないわよ」
一瞬整った美しい顔に、すさまじい凄みが宿ったのは気のせいだろうか？　もはや何の興味も見出せない場所に、冴来は背中を向けた。

「ここは危ないですよ　さあこちらへ」
　封じられた記憶がさいなむ痛みに苦しむももに、声がかけられた。見上げると、見知らぬ青年が立っている。機械的に用意された文章を読み上げるように、青年は言う。
「ここにいると　あなたのためによくありません　さあ離れましょう」
「あの……あなたは？　僕、前にお会いしたことが？」
「さあ急いで　ここを離れましょう」
青年に手招かれるままに、重い頭を抱えてももは進んだ。川を離れ、広い通りに出ると痛みは静かに引いていった。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ここからは一人で大丈夫なはずだと言われています　私はこれで」
ぼんやりと見知らぬ青年を見送りかけて、ももははっと気がついた。
「い、言われているって、何？　誰なの!?」
慌てて問いただすが、青年はもはやももには目もくれず川へと戻っていってしまった。ももの伸ばしかけた手は、手がかりを失ってゆっくりと力なく下ろされる。
（ひょっとして、姉様なの!?　それとも……）
誰より恋しい義姉を思って、ももは夕暮れ空を見上げる。名前に似合う桃色の柔らかな髪が風になぶられ、ゆらめく紋様を描いた。