猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

「これはこれは。けっこう大事になっちゃったね」
　猫又川の椿事を眺め、晴海飛鳥はつぶやいた。手には狐の注意をそらすための稲荷寿司。猫鳴館組がわさびならばこちらはからし。辛いもの攻めで挑むつもりだ。ざっと周囲の状況を見る。一般人は化かされて転がっているだけ、同級生や、見慣れない人間もいるが、積極的に救助に携わっている人間は、この状況下で正気を保っていられるのだから、たぶんみんなもれいびだろう。
「僕はお弁当にしようかなあ。お稲荷さんを持ってきたしね！」
聞こえよがしに大声でアピールしながら、川のそば、周りからよく見えそうな場所に座り込む。弁当箱はもちろん、よく見えるように地面においてふたは開けっ放しだ。安心して狐に引っかかってもらうために、飛鳥はダミーのからし抜き稲荷を口に運ぶ。
（こんなときは、下手に身動きとらないで、向こうが飽きるまでじっと耐える。……ってばあばは言ってたような気がするんだよね。あぁ、うろ覚えだからなぁ……）
堂々としているように見えるものの、内心飛鳥は少しだけ困っていた。祖母からよく不思議な出来事については聞かされていたものの、妖怪や幽霊、伝承、伝奇の物語にばかり夢中になっていて、いざ自分がそういった物事に出会ったときどう対処すべきなのか、それについてはほとんど忘れてしまっていた。
「そもそも、祓いに関することは教えてくれなかったんだよね……」
もうひとつ食べてしまおうか。手探りで弁当箱から稲荷寿司を取り出そうとする飛鳥の手が止まった。
「あれ……？」
川だったはずの場所が、そよそよとそよぐ草原になる。その真ん中に、飛鳥は見覚えのある後姿を見た。和服をきっちりと着こんで、背筋をしゃんと伸ばした年配の女性。あの人だ。見間違えるはずがない。
「ばあば……」
ここしばらく口にしたことのない呼びかけがもれる。懐かしげにその後姿を見やる飛鳥だったが、その姿に近づくことはなかった。遠くから見守るだけで、独りごちる。
「分かっちゃうなぁ。まぁ……会いたいけどさ」
祖母なら、たとえなにか良くない間違いが起きてしまって、さまよう霊になってしまったとしても。決して自分の前に姿を現したりはしないだろうと思った。そんなことなんて、ないだろうけれど。あの人なら、ばあばなら。人としての生を終えたら潔く去って行くだろうと。幻影に過ぎないと理解しつつも、束の間見ることのできた懐かしい姿を、飛鳥はあたたかい気持ちで見つめた。
（僕はばあばばっかり見てたから。あの人は父さんが単身赴任するってなったらそっちについていけっていったんだよね。結局グレちゃって……つまんない連中と付き合うしかできなかったけどさ）
『ばあば』は飛鳥に振り向くことはなかった。

――がちゃん
錠が外れるときのような、音がした。そうだ、自分は狐の噂を聞いて、この目で見ようとして。
いつの間にか、傍らには下級生とおぼしき少女がいる。
「化かされ具合が軽かったせいか。簡単に醒めたな」
両手を腰に、会心の人助けにご満悦と言った様子で、双葉仄は不敵な笑みを浮かべた。
「君が目を覚まさせてくれたの？　ありがとう」
「当然のことだ。放って置いても平気かとはおもったのだが、これを見てはな」
仄が手で示すのは、飛鳥の手元とその横。お弁当箱からはいなりずしのかけらが飛び散り、手に持っていたはずのおいなりさんも、指に少しの油揚げが残るだけでむしり取られたようになくなっていた。
「参ったね。からしの部分は捨てていかれたか。……でも」
食べ散らかした後が、点々と続いている。飛鳥と仄はうなずいて、その後を追い始めた。