猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　逆巻天野は深く深く、過去の幻覚の海に沈められていた。遠くで呼ぶ声がするが、誰かを確かめる気にはなれなかった。
（だって僕は、今サンドバッグになっていて、抵抗できないから）
誰にも明かさずに来た過去。それが再現されていた。母親が自分に向ける、うっとうしそうな表情、愛のこもらない視線。天野は実の母、たった一人の親から虐待を受け続けていた。母が平手を撃てば、男が真似て暴力を振るう。天野に与えられるのは暖かな抱擁ではなく、痛みだった。殴られるたび、男の顔が別人のものになる。
（また別な男に変わったのか。あの人は代わる代わる、違う男を連れ込んでた）
腫れ上がって視界をふさぐまぶたの重たい感じも、血の味もそのままに思い出せる。今あることとして感じられる。いつのまにか天野は母と、彼女の連れ込んだ無数の男たちに殴られ、蹴られていた。
（小さいころは泣いて『痛いよ、やめて、母さん』って言ったな……）
抵抗するのも、泣くのも放棄したのはいくつの時だったろうか？　天野はひたすら耐えることだけを覚えた。いつか愛が与えられると必死に願って。信じて。
（ずっと、ずっと……）

ずっと、待っていたのに。愛されたくて。捨てられるその日まで、ただひたすらに、待って。

――怖い。
天野は、自分の体ががたがたと震えていることに気がついた。寒気がする。吐き気がした。いつの間にか、天野は見知らぬ人間たちに囲まれていた。無関心という冷たい視線が天野を刺す。刷り込まれた恐怖が、天野を揺さぶる。

　修は一時、翡翠と天野のことを忘れる。ここは寝子高の廊下だ。向こうから歩いてきたツインテールの女生徒が手を振る。七夜あおいは人懐っこそうな笑みを浮かべて修の前に立った。
「修君！　どうだった？　私が貸したあの本！　すごい理論でしょ！」
（本？　理論？　俺が貸すならともかく、七夜が本だって？）
「どうしたの？　……ねえ、修君ったら」
あおいは目を細め、すり寄るように近づいてくる。
（……違う）
違う、違う。七夜は学術書なんて興味ないはずだ。七夜はこんな態度を取ったりしない。

「……違う！」
自分の口から出た否定の叫び、そして鋭く高い子犬の吠え声で修は目覚める。足元のカーキーは主人を守るため、見えない何かに向かって敵意をむき出しにして吠え続けていた。
「よし。いい子だ、カーキー……」
愛犬の頭を撫で、ほめてやろうとかがみ込む修は、川の濁った水にどす黒いものが混じっているのを見た。見上げた顔が凍りつく。
「逆巻！　……このバカ！」
天野は自力で狐化かしを払っていた。自分の腕に、深々とカッターナイフを突き刺して。手首から肘にかけて一文字に切り裂かれた傷が目を背けたくなるほど痛々しい。ハンカチを取り出し、傷に押し当て力を込めて圧迫する。
「ああ……いいんだ。これば幻に屈しそうになった、僕への罰、なんだから……」
「何言ってるんだ！　水中で出血させるなんて！」
修は天野を引きずって川から遠ざける。
（もう力には屈しない。僕はこれでいいんだ。――捨てられたとき決めた。もう、力には屈しない）
多勢に反発をする、天邪鬼でいよう。そう思った天野の気持ちに偽りはない。
ただ、今は心配してくれる友がいる。そのことがうれしくて、天野はそっと目を閉じた。