猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　『狐化かしが始まった』
　『今日のはいつになくひどい。無差別だ』
　『とにかくヤバイ！　川には近づくな！』
　その噂は瞬く間に旧市街を駆け巡る。参道商店街の蕎麦屋『すすきの』にも当然その声は届いていた。好奇心か、人命を守る使命感か。薄野一月もまた、騒動の現場に向かわんとしていた。
「とはいえ……。おっさん助けるつもりで自分が、じゃダメよねぇ。おにーさんも対策していかなくっちゃ」
手にするは大袋と小袋。二つの袋を手に提げて、すたすたと一月は現場に向かった。

「あらあらやだわ。これはすごい」
おっさんだけがはまっているかと思えば、予想外の光景。二十人あまりの人間が、水中や川岸で、うめいたり叫んだり無言で倒れたりしていた。周りの人間まで化かすとは、これはいったいどういうことなのか。額に指を当て、一月は考える。だが、背を見せてぷかぷかと浮いている人間を見つけたところで、悠長に考えている暇はないのだと気づいた。
「やばいやばい。何とかしなきゃな」
大袋から浮き輪を取り出し、空気を吹き込む。ロープを通して、固く結ぶと急ごしらえの救命具が出来上がった。我に返ってばちゃばちゃしている人間目掛けて投げ込む。まずは手近な人から助けていかねば、おっさんに届きそうにない。
「捕まって！　あたしが引っ張るから！」
一人の男性が必死になって浮き輪をつかむ。途端ぐいと重みがかかって、危うく一月は転びそうになった。
「あっぶない……！」
かなり細身の一月では、成人男性は支え切れない。救助には人の助けが必要だった。
「おーい！　誰か！　手を貸して!!」
叫ぶ声に答えて、誰かの手がロープをつかんだ。ありがたい、と振り向くと、そこにはいないはずの父親の顔。
「え？　あ……」
『まったく、いつまでふらふらしているつもりだ？』
『お前はそうやって昔から……』
『本当にはっきりしない奴で……』
救命活動という尊い行動に出ている五月の頭の上から、TPOと、夢うつつの境すら無視して父の説教が浴びせかけられる。大きな心の闇がないだけに、身近なものが幻となって現れる。父親のことは深く尊敬しているが、正論でびしり、びしりと説教されることだけはどうにも苦手だった。
「あーあーはいはい。俺今化かされているのね。うわぁリアル。わかります……」
化かされながら自覚を持ち、自分を保っているのはある種とても稀有なことである。が、一月本人にとってはたまったものではない。説教を続ける父親の幻をかぶった正体のわからない人間と救助活動をするのは気持ちの悪い話だった。一月は小袋から唐辛子を取り出し、えいっと口に放り込む。
「うっわ！　から！　思った以上に辛いっ、げっほ、ごほ、ごほっ」
父の姿は消え、そこにいたのは釣竿を背負った高校生だった。手にしたライフジャケットをずいと差し出す。手首には無数の傷がついている。
「……化かされるなら、これを着た方がいい」
「お？　ん、あたしは川に入るつもりはないけど……」
「着た方がいい。水深が30cmもあれば、人は溺死できるから」
亜魚隈猯利は、さらに一月に詰め寄った。オレンジ色のジャケットが目の前にかざされる。少年に諭されて、一月はジャケットに腕を通す。念のためもう一つ唐辛子を噛み、波打つ川面に目を向けた。多くの人は浅瀬にいるが、問題の男だけはどんどんと深みにはまっていく。