奇店綺譚｜リアクション

奇店綺譚

大天使天吏は普段その表情を殆ど変えることの無い仏頂面をわずかに綻ばせ、紙袋を胸に抱えて、シーサイドタウンに建つとある書店から出る。
時刻は９時を回ろうかという所で、女子が出歩くには少しばかり遅い時間だ。
彼女は大の数学好きで、今抱えている袋の中にも当然数学の専門誌が入っていた。
その知識は既に高校生の領域を超え、大学レベルの内容まで理解するに至っている。
早く家に帰ってゆっくり読もうと小走りになりかけたところで、天吏は桐島先生が目の前からやってくることに気が付いた。
あちらも天吏に気が付いたようで、傍に来ると挨拶をする。
「大天使か。こんなところで何をしている」
「桐島先生、こんばんは。先生こそこんな時間までお仕事ですか。放課後も、先生は先生なんですか？　先生が先生じゃなかったら桐島先生はなんになるんでしょうか……？」
「いや、何にもならないんじゃないかな」
「じゃあ桐島先生は先生じゃなくっても先生ということですか」
「あ、ああ……多分な」
「ふうん、桐島先生も大変ですね」
「そうだな……」
現在進行形である。
「それで大天使は何をしていたんだ？　私は今、ここ最近増えている生徒の夜間外出を見回っていてな。事情によっては補導しなければならないのだが」
「へぇ、皆急にどうしたのかしら」
「補導した生徒が言うには『喫茶店』を探しているそうだ。てっきり私はお前もそうだと思っていたんだが、違うのか」
桐島先生は意外そうに天吏に尋ねた。
それに天吏はふるふると首を横に振って答える。
「喫茶店ですか？　私は知りませんが……。私はこの本を買いに来ただけなので」
そう言って天吏は抱えていた紙袋を示した。
袋の封を解いて中から雑誌を取り出して桐島先生に見せる。
「お、それは……」
やはり桐島先生も数学教師なだけあって、その雑誌は知っているようだ。
「そう言えば今日が発売日だったな。今回の特集はなんだったか……」
「私もまだ表紙しか見てませんけど、数理哲学関連だったかと」
「それは少し気合いを入れて読まなければならないな。大天使は理解できるのか？」
「いえさすがにそこまでは……でも読んでおいて損は無い気がしたので。私は最近フーリエ変換や微分方程式がお気に入りです」
「そうか、随分勉強熱心だな。お前といい八神といい、数学に興味のある生徒が多くて私は嬉しいよ」
先程の修からの電話を思い出したのか、桐島先生は少々感動気味だ。
一方、天吏は聞き覚えの無い名前に不思議そうな顔をする。
「八神？」
「１年生だが、数学を面白いと言う珍しい生徒がいてな。案外大天使と気が合うかもしれないな」
「ふうん」
天吏は興味無さげに相槌を返した。
「おっと、つい立ち話に時間をかけてしまった」
好きな分野の話につい夢中になっていた桐島先生ははっとして、見回りに戻ろうとする。
「では気を付けて早目に帰るんだぞ」
「あれ、私を捕まえないんですか先生。家まで送ってもらえると思っていたんですけど」
「ああ出来れば私もそうした方が安心なのだが。これから吉田先生と合流して見回らなければならないのでな……」
「桐島先生は私より吉田先生との約束の方が大切なんですか？」
天吏は首をかくんと傾げてそう訊いた。
すると桐島先生が答えるよりもはやく、彼女が口を開く。
「『すまん、仕事なのでな』」
まるで予測していたかのように、桐島先生の言おうとした言葉が天吏の口から出た。
思わず天吏は自分の口をぱっと手で覆った。
そしてそのまま会釈をすると、面食らっている桐島先生を置いて自宅へと走り去った。
久々に数学の話が出来た天吏は、その内容をねこったーに残しておこうと思いながら、帰路を行くのだった。