今日も今日で仕事です｜リアクション

今日も今日で仕事です

　旧市街の一角に、古書喫茶『思ひ出』はある。
　漆喰の壁と千本格子の窓が印象的な古民家の玄関先には、レトロさを際立たせるようなアロエやカネノナルキの鉢植えが並んでいる。
　通りがかると、珈琲の香がふわり、淡く漂っていることが多い。甘く心を和ませるその香に惹かれ、ふらり、引き戸の前に立つ。開けるか開けまいか迷ううち、カラリ、軽い音立てて内側から戸が開いた。
「おっと」
　縹色の着物を纏った店主、柏村文也がほんの少し驚いたように黒い眼を瞠る。挨拶すれば、店主は寝癖のついた黒髪を軽く掻きつつ温和に笑った。
「やあ、いらっしゃいませ」
　店内を覗いても、人気はない。
「ゆっくりしていくといい」
　戸外の掃除でもしようとしていたのか、店主の手には箒とちりとりが握られていた。その掃除道具を一旦片付け、のんびりとした足取りで店奥のカウンターへと戻る。
　招かれるまま、店に入る。場所によっては僅かに軋む木床を踏み、店内を満たす珈琲と古書の匂いを胸に満たす。柔らかな光に包まれた店の壁を埋めるのは、作り付けの本棚。本棚をぎっしりと埋めるのは、店主が集めに集めた古書。
　整理しかけの本なのか、はたまた店主の読みかけの本なのか、カウンターには何冊かの本と飲みかけの珈琲が置かれている。客が来るまではきっとのんびりのんびり、軽く掃除をしたり、軽く本の整理をしたり、珈琲を淹れたり飲んだり、本を読んだり珈琲を飲んだり、
「……さぼってたわけじゃないよ？」
　読みかけの本を本棚に戻しながら、言い訳じみて店主が笑った。
　『思ひ出』の店主は基本的にのんびりしている。あんまりの商売っ気のなさに心配になるときもあるけれど、本を眺めたいときはここに来るのがいちばんいい。なにより、放っておいてくれる。
　店主が積極的に声を掛けて来ないのをいいことに、天井近くまで並べられた本の背表紙を眺め、レトロな革張りソファの前の卓にインテリアじみて置かれた本の表紙を少し捲る。作り付けの本棚に掛けられた重厚な木造梯子を伝い、ズラリと待ち受ける背表紙とにらめっこし始めたところで、
「なにかお探しかい？」
　カウンター奥でアンティークのような珈琲カップを磨いていた店主に声を掛けられた。
「よかったら小生がお手伝いするよ」
　『私』に『僕』に『吾輩』。少し古風な言い回しをする店主は、気分によって一人称をころころ変える。今日は『小生』な気分らしい店主は、どこからともなくノートPCを取り出した。
　店のレトロな雰囲気には似合わぬ文明の利器に眼を瞠れば、店主はまんざらでもなさそうに瞬いた。
　店番をよくしている甥っ子らしい学生はそんなものを使っているところを見たことがない。そう口にすると、
「機械音痴は知らないだろうけど、実はこの店、本の在庫や位置をほとんどデータ管理してるんだよねー」
　店主はケロリと言ってのけた。レトロに見えて、案外ハイテクな店らしい。
　探す本の題名を告げる。慣れた手つきでキーボードを叩き、店主は探す本をいとも容易く探し出してくれた。あったあった、と呟きながら本棚の一角を指先で辿り、一冊の本を手に取る。

「あなたがお探しのものはこれかな？」
　芝居じみて差し出された本を受け取り、礼を言う。ついでに本を読む間のお供になりそうな珈琲とサンドイッチを注文させてもらう。
　古書喫茶、の名の通り、ここでは古書と一緒に軽食を楽しむこともできる。手の込んだ料理が苦手なのか、メニューはサンドイッチにホットケーキに、至ってシンプルなものが多い。それでも素材にはこだわっているらしく、切りたてのパンで作る辛子マヨネーズのきいたハムレタスサンドも、分厚い卵焼きを挟んだエッグサンドも、絶妙に美味しい。
「はいはい、少々お待ちください」
　頷いてカウンターに引っ込む店主の着物の背をなんとなく眺める。手慣れた動作でサンドイッチを作り、珈琲をハンドドリップし始める。サンドイッチもさることながら、珈琲の味は絶品と言っていい。店主が丁寧に淹れる珈琲は雑味がなく、深く、甘い。
　ポットに落ちては香りをたてる珈琲の音を聞きながら、読みたいと思っていた物語の世界への旅ができる。古書喫茶『思ひ出』はそのような店でもあるのだろう。
「ひとりの時かい？」
　サンドイッチと珈琲を届けてくれた店主に客がいない時間の過ごし方を問う。そうだね、と少し考え、店主は穏やかに笑った。
「基本的には店内でのんびり過ごしているよ。たまにパソコンをカタカタしてみたりね」
　そういえば、と本の海な店内を見回す。
「そろそろ新しい本が欲しいなあ」
　――次の休みが明ければ、『思ひ出』の蔵書数は更に増えているかもしれない。

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