【お花見】しづ心なく花の散るらむ｜リアクション

【お花見】しづ心なく花の散るらむ

●寝子島街道にて

　空は、透き通る青色で、
　風は、目に見えぬ緋の色で、
　けれども時（とき）は、歩みを止めない。

　もうすぐ三年生になるんだねぇ――。
　結城日和は青空を見上げる。
　手が届かないくらい遠い空、彼女を見おろしているのは桜の花だ。

　いよいよ最高学年になるのだ。といっても日和にとっては、いまひとつ実感がわかないのも事実だった。二年生のままどころか、来年は一年生ですと言われても、そうだったねと納得してしまいそうな気がした。
　それでも事実は変わらない。いずれ、たくさんの新入生が入ってくる。
　芸術科にも入ってくる。おそらく数人は、寝子島クラシック同好会にも。
　新しく来た子たちにも素敵な音楽を聞かせてあげられるといいなぁ、と日和は思う。いつの日だったか日和が、音楽に初めて触れた日に感じたようなときめきを、伝えられたとしたら、嬉しい。
　――そのためにも、ヴァイオリンのメンテナンスはしっかりしておかないとね！
　今日このとき、日和はヴァイオリンのケースを提げて寝子島街道を歩いていた。定期的に楽器店に出しているメンテナンスが終わり、受け取って帰る道なのだった。
　ヴァイオリンをメンテナンスに出す際、いつも彼女は、自分で持ち込んで一日預け、翌日に自分で持ち帰るようにしている。最近は電話一本で配達もしてくれるという話だったが、必ずみずから受け取りに行くようにしていた。配達ですませるというのはどうも、赤ちゃんに「歩いて帰ってこい」と言っているのに近い気がしてなじめなかった。
　今回のメンテナンスにおいても、彼女のヴァイオリンには異常らしい異常はなかった。よかった、と思う。大切に使えばそれこそ何十年と使うことのできる楽器だが、有機物ゆえいつかは、別れねばならぬ日が来ることだろう。だがそれは今ではない。おそらくきっと、ここ数年でもないだろう。
　日和はヴァイオリンに、『place au soleil（プラス・オ・ソレーユ）』という名前を付けていた。フランス語で『ひだまり』という意味になる。
　父親からプレゼントされた日のことは忘れない。
　高価な品だと言われた。精巧な逸品だと。
　革張りのケースのずっしりとした重みに、あるいはぴんと張った弦に、父からの期待を感じた。
　けれども日和がこの楽器に強く感じたのはむしろ、木目の暖かさ、うっとりするような香り、そして音色の優雅さと甘さだった。
　弾くだけでひだまりが広がるような気分だった。
　あれから何年経ったか。
　父にとっていまだそれは『日和に買ったヴァイオリン』でしかない。だが日和にとってはずっと、『ひだまり』のままだ。
　今はもう父からの期待は感じないし、あのときのような気分にはならないかもしれない。しかし、
　私にとっては特別、
　なのだ。
　やっぱりヴァイオリンを奏でると、特別な気分になる。
　弓を引くと心は震え、弦に置いた指から、七色の音の振動が骨にまで伝わってくる。
　ふわっと日和の前髪が揺れた。風が出ている。
　風に身を任せた花びらが、日和の目の前を横切っていった。
　あと何回『place au soleil』と桜の日を迎えることができるだろう、と日和は思った。
　高校時代が終わっても、もっともっと歳を取っても、いつか指が動かなくなり弾けなくなったとしても、あるいは楽器のほうが役割を終えてしまったとしても……やっぱりこのケースを提げて、桜と会いたい。