秘められた思い出｜リアクション

秘められた思い出

　夜明け前、寝子島の全体が息を潜めていた。鳥の囀りも聞こえては来ない。風さえも押し黙っているようだった。
　星ヶ丘寮の邸宅で篠宮六花は浅い眠りに就いていた。ゆったりとした布団に横向きで収まり、丸くなっている。瞼を強く閉じて銀色の髪を小刻みに震わせた。
「……狭くて……寒い……どうして、俺が……」
　声まで震えていた。悪夢のような過去が意識を黒く蝕んでゆく。

　六花は薄暗い押入れの中にいた。薄い毛布を敷き詰めた寝床で丸くなっている。祈るように組み合わせた手の震えが止まらない。血色の悪い唇で、寒い、と囁いた。
　その切ない訴えを嘲るかのように叔父が笑った。若い女の声がする。下品な会話を二人で垂れ流した。
　間もなくして静けさが訪れた。湿っぽい音がして微かな嬌声が混じる。
　六花は、寒い、と呟いた。
　二人の荒い息遣いが聞こえてきた。肉を打ち付けるような音がした。女の掠れた声が散り散りになる。
　六花は、寒い、と口にした。
　二匹の獣の声が激しく絡む。どちらともなく、本性を剥き出しにした。揃って声を上げた。
　六花は、寒い、と赤い目で言った。

　全身が震える。六花は夜のベランダに立っていた。窓はぴったりと閉められ、中の音は聞こえない。
　カチカチと自身の歯が鳴る。あまりに煩いので噛み締めた。それ以外にすることがない。狭いスペースで満足に動くこともままならず、白い息を吐き出しながら空を見上げた。
　丸い月が浮かんでいる。頭の片隅で、綺麗だ、と呟いた。
　同じ姿勢で月を眺めていた。頭が軽く揺れる。赤い瞳は潤んで、その場にしゃがみ込んだ。
　翌朝、六花は風邪を引いた。ようやく安らかな眠りを手に入れた。

　押入れの中は安らぎの場に変わっていた。六花は二匹の獣の声を聞きながら小さなペンライトで手元を照らす。粗悪な紙に鉛筆で五本の線を引いた。頭の中に流れる音を個々に摘まんでいくように描く。四分音符や八分音符の区別はない。全てが等しく歪な点であった。
　完成した自作の曲を掲げる。微かな鼻唄が押し入れの中を緩やかに満たしていった。

　ゆっくりと瞼を開ける。縮こまっていた身体を伸ばし、六花は仰向けになった。
「どこだ、ここは……」
　ぼんやりとした目を天井に向ける。
『ちゃんと向き合え』
　頭の中に言葉が閃く。瞬きの回数が増えた。
　上体を起こした六花はしっかりとした声で言った。
「星ヶ丘寮か」
　閉じられたカーテンに目を向けた。仄かな明かりが感じ取れる。
「……暗闇、水の音、月、楽譜、声」
　胸の中に転がっていた言葉を口にする。両親が離婚して、その後に引き取られた叔父の家の印象であった。
　六花は布団から抜け出した。涼しげな格好でバルコニーへと身を躍らせる。
　夜は明けていた。空に月はない。湿った音も聞こえない。爽やかな風景が六花の眼前に広がっていた。
　東の空に光の筋が走る。憧れにも似た表情で迎え入れた。
「今までは生かされてきた。これからは自分が決めた道を生きる」
　決然とした言葉を大空に放つ。
　凛とした空気の中で六花は大きく伸びをした。
「俺の夜も明けたのかな」
　自由な時間を心と身体で感じるのだった。

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