秘められた思い出｜リアクション

秘められた思い出

　朝陽を受ける寝子島総合病院から、深倉理紗子がひっそりと現れた。やや顔を下げて着ていた白いコートの襟を立てる。
　思い付いたように東の空に顔を傾けた。緑色の瞳を眩しそうに細める。間もなく背中を向けて、とぼとぼとマンションの方へと歩き出した。
　橋を渡り、何とはなしに顔を上げる。自宅のワンルームマンションが、すぐそこに見えていた。陽光を浴びた建物は新築のように輝いていた。
　――ここに住み始めた頃を思い出すわね。
　瞬く間に時を遡る。初々しい姿で頭の中に過去の出来事が展開された。

　少し古ぼけた不動産屋の前に理紗子がいた。ガラスに貼り付けられたマンションの物件を困ったような表情で見ている。
　――家賃と間取りはわかるんだけど、数が多くて……。
　大量の物件に目が迷う。ガラスのドアを見た瞬間、理紗子は少し仰け反った。目付きの悪い老婆が店内から張り付くようにして見ていたのだ。
　重そうにドアを開くと値踏みするような目を向けてきた。
「あんた、何してんだい？」
「あ、あの、部屋を借りたいのですが。どれがいいのか、その、迷ってしまって」
「何だよ、もっと早く言っておくれよ」
　老婆は皺を寄せ集めたような顔で笑った。理紗子の背後に素早く回り込む。やんわりと背中を押して店内に導いた。
　勧められたイスに理紗子が腰掛けると、老婆は手揉みをしながら聞いてきた。
「どんな部屋がお望みで」
「そう、ですね。寝子島総合病院に近いところがあれば、嬉しいのですが」
「ほう、あんたはひょっとして、病院関係者なのかい？」
「え、はい。研修医で採用されまして」
　気恥ずかしい笑みを浮かべて答えた。老婆は目を見開いて、おー、と感心した様子を見せる。
「これ、必要事項ね。ちゃっちゃと書いて、すぐに出掛けるよ」
「あ、はい？」
　疑問で返しながらも記入を済ませる。老婆は一瞥すると早足で店舗の外に出た。理紗子は慌てて付いていく。

　数分で目的地に着いた。きびきびとした動作でワンルームマンションの一室を紹介された。
「目と鼻の先に病院があって、家賃も手頃だよ。コンビニが近いから生活で不便を感じることはないね。あたしが保証するよ。どうだい、考える余地はないんじゃないのかい？　ここに決めちまいな」
「まあ、確かに病院からは近いですね」
　殺風景な部屋を一回りして窓に目をやる。川向こうに寝子島病院が見えていた。
「マンションの近くに小学校や中学校があったのですが」
「あるね、あるけど、どうってことないよ。慣れれば静かなもんさ」
　老婆は早口で言い捨てた。
　――慣れるまではうるさいみたいだけど、昼間は病院で働いていると思うから関係ないよね。
　理紗子はその場で契約を交わした。

　諸々の手続きを済ませて部屋に荷物を運び込む。感覚で家具を配置。生活に必要な細々とした物を順々に取り出していく。
　夕方を迎えた。全ての荷を解くことはできなかった。ざらざらとした床の掃除に取り掛かる。
「……本当に、疲れた」
　理紗子はベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。頬に汚れの筋を付けた状態で眠りに落ちた。
　その表情はすっきりとしている。解放感を味わっているようだった。

　今日もマンションの一室に理紗子は帰ってきた。
　薄暗い部屋の中を突っ切ってベッドに仰向けに倒れた。額に手の甲を当てて呟く。
「……あの時みたいに、紗智子、お姉ちゃんの……夢が……」
　亡くなった姉の名前を口にしつつ、安らかな眠りに就いた。

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