【お正月】日が落ちるまで｜リアクション

【お正月】日が落ちるまで

「これなら、日が沈むまでに……間に合う、かな？」
　緩やかに波打つ髪を片方の手で抑えつつ地図に視線を落として少女はつぶやいた。
　恵御納夏朝がいるのは、九夜山中腹、登山道を半ばも進んだ地点だった。
　息はだいぶ荒れており、肩が軽く上下している少女だが、その表情は普段よりも少し気合に満ちている。
　寝子島でのこれまでのいろいろな出来事が、彼女の気合の源だった。
「でも、ちょっと、急ぎすぎたかも……？」
　源だったが、やや枯渇してきていたのも事実で。
　ここ数か月で体力はついたんじゃないかと思ってたんだけどなぁ。
　心の中でぼやきかけた夏朝だったが、うん、と一つ気合を入れなおす。
「フツウを守るなら……この程度で、ばててられるか……！」
　望外に実現した初詣の時は、フツウを味わいたくてゆっくりと歩いていた。
　でも今は、フツウのために、日が落ちるまでにと山道を急ぐ。
　少しずつ体力もついて、『フツウでないコト』も打ち明けられた。
　穏守祈願。それは確かに彼女の祈り。
　でも――本当は、もう一つ心に秘めた願いがあったのだ。
「ついた、かな」
　眼前に広がる、静かな湖面。空を仰ぎ見れば、だいぶ傾いてはいるものの、まだ太陽が柔らかな笑みを浮かべて夏朝を見下ろしてくれている。
　息を一つ吸い、手を合わせる。今日、神社を再び詣でた時と同様に、静かに神戸を垂れて、彼女は自らがここと見定めた場所へ、紡ぐ言葉で祈りを捧ぐ。
「僕の中には、もう一人、います。夏夜ちゃんといいます」
　夏夜ちゃんと向き合って、『２人並んで』、皆とフツウに過ごすことができればいいな。
「僕と夏夜ちゃんを、それぞれを保ちながら心身ともに分離できますように！」
　それは、初詣でフツウを満喫する中では言葉にできず、心に秘めていた願い。願うことに躊躇したのは――
「でも……この願いが叶う事で寝子島のフツウが壊れてしまうなら、この願いは諦めるつもりです。だから……だから、その場合は……他の、寝子島に住んでいる人たちの願いを、叶えてあげてください！」
　贅沢な願いかも、そう思いながらも彼女は二度手を打ち合わせて、湖に向かって頭を下げた。

　ゆるゆると降りたロープウェイの終着点。
　暗い夜道を降りるのは怖いからと、ロープウェイを使うことにした帰り道。登山道入口の駅を出て少し歩いたところで出会ったのは、薄茶色の髪の少年――八神修だった。
「八神君……」
「恵御納じゃないか」
　ちょうど友人たちとの集まりから解散したところのようだった八神が、恵御納に微笑みを向ける。
「八神君、毛がついてます」
「え、あ！　あー、ありがとう……」
　肩についた毛をつまんであげると、同学年でいつも落ち着いているはずの少年が、珍しくも慌てた表情を見せて。
　珍しい――そんな思いを抱いた恵御納もまた、笑みを更に深める。そんな彼女のに触発されたように笑う八神が、ふと思い出したように、恵御納に語り掛けてきた。
「そういえばね――」
　今日、いい猫スポットを見つけたんだ。
　ＮＭＲネタだって言って後木達がね。
　くすくすと微笑みながら八神の口から紡がれる今日の「フツウ」の話に、恵御納も笑いを誘われる。
　歩こうか――帰り道をたどりながら、様々なことを話した。
　こんな「フツウ」の日常を、これからも守って行けたなら。
　夏夜ちゃんが、その日々の中にいられたならば。
　できるなら――ある気ながら、恵御納は思う。
　願いがかなえば、どれだけうれしいことだろう。
　いつか、二人で歩けますように……。
　願いは、冬の夜の空気に静かに溶け、静かに、空へと舞いあがっていくかのようだった。