【B or W?】

　歌。歌。
　寝子島を満たす音楽。
　そして、彼女の歌。

♪『六方晶系のキオク』

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歌　夢宮 瑠奈 / 演奏　ユメギワ空想楽団

　じわり。じわりと。ぽつり。ぽつりと。まるで、溶けだした氷から滴る水滴のように、音はゆっくりと、そして着実に。
　瑠奈の胸へと染み入り、広がっていきます。
　朽ちかけた廃墟の一角に彼女は立ち、歌っています。崩れ落ちて光の差し込む壁。少しばかり開けた空間の真ん中、彼女を中心に据えて円陣を囲むように、ヴァイオリン。ヴィオラ、チェロ。コントラバス。頼りなげな明かりにも影は落ち、白いスーツの楽団員たちの表情を、ちらとでも窺い知ることはできません。
（……あたしの……記憶。見たことのある場所）
　歌は空しく響きます。ひとりの聴衆もおらず、ただ灰色の壁に反響し、消えていくのみです。けれどもとより、歌は誰かに聞かせるためのものではなく、彼女の内面をこそ刺激し、うずもれた記憶を引き上げ再生するための、いわば……テレビのリモコン。パソコンのキーボード。スマートフォンの液晶画面。そんな役割を果たすものです。
　歌が瑠奈の表層をなぞり、浮かび上がってくるのは、忘れがたい光景。
（あたしと、ママ。誘拐されて……廃墟に閉じ込められて……助けてもらえた、けど、ママは大怪我で……）
　青、赤、黄の三原色が、彼女の思考に呼応するように、血に塗れた母の姿を目の前に投影します。
（ママ。ママの、最後の顔）
　つい、と瑠奈が見上げるように視線を上げると、陰鬱な廃墟は母の幻影もろともに、ばらばらと四角いパネルとなって解かれ消えていき。代わりに飛来する無数のパネルが組み上げていくのは、打って変わって清潔そうな、白い建物。
　掲げられた看板には、『寝子島総合病院』とありました。
（ママは、あの時に……死んじゃった）
　ぱちりとチャンネルが切り替わるように、ベッドに横たわる母の姿を、瑠奈は再び目にします。苦しげに漏れたうめき。瑠奈は目を伏せ、そして……。
　そして……。
（…………ママは、本当に、死んじゃったの？）



　記憶とは、得てして不完全なものです。
　瑠奈と母が永劫の別れを迎えた、その決定的なシーンがすっぽりとそこから抜け落ちていることもまた、彼女が自身の不確かな記憶を疑うに足る、材料のひとつでした。
　楽団員たちが弦を引き、きゅいとしなる音を響かせ、瑠奈が高く歌声を押し上げれば、色とりどり、無数の光の粒子が収束して、取り巻く世界を再編し……編み上げられていく墓地、そこを訪れる自分の姿を、彼女はぼんやりと眺めます。
　毎年の墓参り。通例行事。当たり前のように足を運んでは花を供え、線香を上げ、両手を合わせました。
（……誰に？）
　目の前の墓碑に、名は刻まれていません。
（あたしは一体、誰のお墓をお参りしてたんだろう？）



　紙芝居を入れ替えるように、視界へ差し込まれたのは、夜の屋上。通い慣れた、寝子島高校。
　きらきらと瞬く星空から、ひらひらと踊るように落ちてくる、一通の封筒。瑠奈は、既に封の切られたそれを空中で迷いなく受け止めると、しげしげと眺めます。
（病院から、届いた……）
　『末明せれね』へと届いたファンレターの投函元は、『寝子島総合病院』。差出人の名前はありません。瑠奈はその病院を、訪れたこともないはずです。
　便箋に綴られたメッセージは、一文だけ。
　『また、歌えるようになったんだね』。
（…………今は、まだ……いい。答えが見つからなくても）
　探せば、見つかるのかもしれません。溶け出した氷、滴り落ちた水の流れ、こぼれた結晶の行きつく先が。
　けれど、今は。



（あたしは、歌っていよう。祈りを込めて。今は、ただ……）
　音楽の力がもたらす、あまねく世界が変革する瞬間を信じて。












　ぱちん！　とハイタッチ。
「んふふっ。皆さん、お疲れさまでした！」
　全ての演目を終え、いずれも満足そうな笑顔を湛えたユメギワ空想楽団の面々を、胡乱路 秘子は深々とお辞儀をして見送ります。
　寝子島高校の夜の屋上には、アカペラでも素敵な瑠奈の歌声が、遠く、抜けるように響き渡っていて、秘子もまたうっとりと目を細めながら、空に歌う彼女の後ろ姿を見つめておりました。
　手元の古びたピンク色の携帯電話、液晶画面には、今日の番組を彩ってくれた素晴らしいキャストたちの演ずる映像が、繰り返し流されています。
　飛び立つ後木 真央と青空のコントラストはこの上なく美しくて、それに勇気が湧いてきます。
　コミカルな小野田 万里の戦いには思わず笑みがこぼれて、大いに感情移入しつつ応援してしまいました。
　八神 修の意外な闘争心には胸を打たれ、自分までかっかと身体が熱くなってくるようです。
　御剣 刀の剣戟や、毒島 虹子の舞台にははらはらとして、震えながらにその顛末を見守ったものです。
　一歩一歩、よろめきながらも歩みを進める矢萩 咲などには、思わず駆け寄って、手を引いてしまおうかと思ったほどでした。
　そうした秘子の、いつにないこんな感情はうねりは、彼ら自身が持ち合わせるあのまぶしいほどのきらめきを、楽団の奏でる素晴らしい音楽が、巧みに演出していたからなのでしょう。
「やっぱり音楽って、歌って……んふふふ。とっても良いものですね♪」
　くるり。くるり。夜空を渡る歌に乗って、秘子は踊ります。
　白浜 渚の、黒依 アリーセの、そして瑠奈の歌声が今、彼女の体内を、焦がすほどに激しく巡っています。
　くるり。くるり。昂りのままに、秘子は星へと叫びました。



「…………ああ！　私も、いつの日か。歌を！」