寝子島キャンバス｜リアクション

寝子島キャンバス

　旧市街の交差点の角に木造平屋建てのこどもの家『うれしの』がひっそりと存在した。町家風の作りに相応しく、保育園として認可されて四十年の歴史を刻む。
　そこで嬉野渚は主任保育士の肩書で働いていた。三十路を越えた子持ちの主婦ではあるが見た目は相当に若い。童顔の上にフリルの付いた愛らしい服を好んで着用した。
　今日はカラフルなエプロン姿で山ほどのクレヨンを胸に抱えていた。年季の入った木製の廊下をそろそろと歩く。辿り着いた保育室の扉は半開きになっていた。肩口で押すようにして入っていった。
　子供達の明るい声が渚を取り囲む。
「なぎさせんせー、それなに？」
　活発そうな女の子が渚のスカートを引っ張って聞いてきた。
「これは町役場で貰ってきたクレヨンなの」
「なんだ、クレヨンか」
　他の男の子が詰まらなそうに返した。積み木を入れた箱に歩いていった。
　その場にしゃがんだ渚はクレヨンの箱を床にどさりと置いた。子供達に見えるように広げていく。
「このクレヨンは普通のものとはちょっと違うのよ」
「どこがー」
「ただのクレヨンみたい」
　一人の女の子が上蓋を開けて中を覗き込んでいる。その中から渚は一本の黒いクレヨンを選び出した。
「そうでした。道具を忘れていたわ」
　渚はツインテールのリボンを弾ませて引き返し、霧吹きと雑巾を持って戻ってきた。
「よく見ていてね」
　渚は子供達に声を掛けて行動に移る。窓の下の腰板に先程のクレヨンを押し当てて一気に横へと走った。板には波打つ線が長々と描かれた。子供達は目を見開いて踊るように撥ね跳んだ。
「せんせいがラクガキした！」
「なぎさせんせー、すごーい！」
「すげえー！」
　何故か誇らしげな顔で渚は子供達の声に聞き入る。収まってきたところでクレヨンを掲げた。
「このクレヨンは水で簡単に取れちゃうのです。だから、今日はみんなで楽しくラクガキをしましょうね」
「でも、どこでもいいの？」
　伏し目がちの男の子が不安そうな声を出した。笑顔で渚は頷いて霧吹きを板に向ける。霧状の水がクレヨンに掛かると溶けるように流れた。その部分を雑巾で拭くと元の腰板の状態に戻った。
「どうですか。すごいでしょ。だから、どこにラクガキしても」
　話の途中で可愛らしい歓声が起こった。積み木を手にしていた男の子は走って戻り、クレヨンを掴んで床に突っ伏した。鼻息が荒い状態でロボットの絵を描き始めた。
「わたしも！」
「ぼくだって！」
　子供達は奪い合うようにクレヨンを掴んで方々に走り出した。渚は後を追い回すようにして声を掛ける。
「廊下に描いてもいいですよ。沐浴室やお便所もいいですが、水で流れちゃうので気を付けてくださいね」
　話が子供達の耳に届いていないのか。返事をしないで夢中になって描いていた。
　窓に赤いチューリップの花が咲いた。廊下には白い兎が跳ねている。外に元気に走り出す子供もいた。
「私も何か描こうかな」
　渚の青い瞳がくるくると動いた。子供っぽい先生の本領発揮であった。