寝子島キャンバス｜リアクション

寝子島キャンバス

　雨宮詩空はセーラー服の上にベージュのカーディガンを着ていた。いつもの通学路を弾むようにして歩く。両方の袖がブラブラと気ままに揺れた。
　道沿いに中学校の正門が見えてきた。詩空の足が速くなる。
「みんな早いねー」
　門や道に細々とした絵が描かれていた。
「リンゴにバナナ。あれはトマトかな」
　詩空は目尻を下げて微笑んだ。
「私もたくさん描いちゃうもん」
　明るい声で正門を抜けた。詩空は小走りで周囲に目を向ける。
「迷っちゃうなー」
　正面に見える校舎を回り込む。横手の壁に目を向けると何も描かれていなかった。通りから見え難い位置が幸いしたのかもしれない。
「最初はここにしようかな」
　詩空はそれとなく辺りを見回す。誰もいないことを確認して、その場にしゃがみ込んだ。カーディガンのポケットに入れていたクレヨンの箱が押し上げられ、太腿の一押しで足元に落ちた。
　ぺたんと地面に腰を下ろしていそいそと靴を脱ぎ出した。素足になってクレヨンを左右から挟み込む。そっと持ち上げると上蓋が取れた。整然と並んだクレヨンは足の指を入れる隙間がない。
　詩空は片方の足で箱を立てた。残りの足を直接、クレヨンに宛がう。微妙な角度を付けて揺すると足の裏にクレヨンがもたれかかった。
「ここは慎重に」
　整列した状態で押し上げながら箱を水平に戻す。クレヨンは綺麗に斜めで揃った。詩空は二本の足で一本を抜き取り、口に咥えると壁に向かった。
　黄色いクレヨンは大きな曲線と僅かな切れ込みを描き出す。顔を忙しく動かして輪郭の中を塗り潰していった。
　微妙な濃淡で銀杏の葉は浮き上がって見える。
「お婆ちゃん、上手に描けたかな」
　物を咥えた状態の為、舌足らずとなった。一葉では壁に対して物足りない。詩空は休むことなく大小の銀杏の葉を壁全体に描いていく。次第に奥行きを感じさせる絵になっていった。
「少し寂しいような……」
　詩空はクレヨンを交換して道を描き足した。上部は狭く、下部は広い。周囲を乱舞する黄色い葉が描かれていない銀杏並木を想像させた。
「なんか下が気になるかも」
　下側の大きな余白に目を落とす。口に咥えたクレヨンではしゃがんでも届かない。カーディガンを着た状態で腹這いになるのは少し気が引けた。
「誰もいないからいいよね」
　地面に腰を下ろした。口のクレヨンを足に持ち替える。道を横断する黒猫を描いた。その後ろに二匹の子猫を加える。
「うん、可愛いかも」
　詩空は子猫に向かって微笑んだ。

　赤い上下のジャージ姿で真央は街中を爆走していた。背負った赤猫リュックが激しく揺さぶられる。
「夜更かしが過ぎたのだ！」
　寝坊したかのように撥ねた髪の毛のまま、寝子島漁港に突撃した。道には人魚やサメの絵が描かれていた。
「先を越されたのだ～」
　市場の壁は綺麗な状態で残っていた。真央は壁に張り付くようにしてクレヨンで猫を描く。去りゆく姿で時に背後を窺う。一瞬を切り取った力作には、やはり大きな蕗の葉が添えられていた。
　漁業関係者と思われる首の太い中年男性が壁の絵に鋭い視線を放つ。
「ねころぼっくるなのだ。蕗の葉の下がとてもよく似合うのだ」
　主張を終えた真央は駆け出した。市場を抜けて寝子島水処理センターに向かう。
「目指せ、五十匹なのだ！」
　真央の奮闘は続く。