満月の夜に｜リアクション

満月の夜に

　風が鳴いている。
　月の夜に響き渡る風の声を追うて、服部静は雨雲の色した瞳を空に上げる。そうして、
「……ああ」
　安堵と感嘆の入り混じった声を結んだ唇から零す。
　どこまでも続くかと思われた鬱蒼とした獣道を不意に断ち切って、視界が開ける。
　明るい満月を背負い、蔦に呑み込まれつつ立ち尽くす観覧車に視線を奪われた。満月の空を満たす風が観覧車の籠の隙間を縫うて奔る。踊り、鳴く。
　歳月に風化して崩れた壁を乗り越える。二十年も前の絵柄で描かれたキャラクターの看板が足元に半ば割れ砕けて転がっている。
　迷いかけた己を目的地である此処まで導いてくれた明るい月光を頼りに、視線を巡らせる。少し向こうに、本来の入り口であろう門と雑草に覆われ、それでもどうにか道の体裁を保っている三夜湖に続く道が見えた。
（漸く着いた）
　汚れ、壊れかけた門には『寝子島イリュージョンランド』の文字が月明かりに辛うじて読み取れる。
　寝子島には仕事で何度も訪れ、高校時代はこの島で過ごした静でも、この廃墟の遊園地の存在は知らなかった。　
　雑草に割られたコンクリートの道をゆっくりと歩く。廃墟に遊ぶ風の音に己の足音が混ざる。
　一切の動きを止め、光を失い、人の訪いを拒んで、ただ蔦と雑草に呑まれるのを静かに待つ場所を一人、彷徨う。
　此処に至るまで歩いてきた燈籠の道が遠い記憶のように感じられた。
　麓や展望台付近の賑わいとは別世界の様相を呈する月明かりの廃墟は、さながら夢の跡地、もしくは、
（月の廃墟、だな）
　静かで、物悲しくて、不気味で、それでも優しくて懐かしくて、そうしてどこまでも美しいその廃墟で、己が生きていることを確かめたくなった。大きく呼吸する。
　錆び付いて行くままに放置されたゴーカートや、無惨に砕けて転がるコーヒーカップに目を向ける。昔、ここにまだ子供達の笑い声が満ちていた頃に想いを馳せる。
（僕は……）
　不思議だった。
（俺は当時のことなんて知らんのに）
　何故、懐かしさや寂しさが湧くのだろう。
　地面にのたくる蔦を踏む。風と月光の気配にゆっくりと瞬く。
　朽ち果てるというよりも自然に還って行く、そう感じさせる不思議な雰囲気が、この寂寥感のもとなのだろうか。
　そこまで茫洋と考えて、ふと、だからか、と思い至る。
（だから、俺は古いものに美しさを感じるんかな）
　忘れ去られ静かに朽ちてゆく遊具の残骸の間を抜けたその先、風雨に汚れ、それでも未だかたちを残す回転木馬を見つける。錆びた鉄柵を乗り越え、鮮やかな彩色を僅かに残す木馬に手を掛ける。何とか座れそうだと判断し、早駈けのかたちのまま動きを止めた木馬に、身軽く腰を下ろす。
　風が木々を鳴らして歌い、虫の声さえ攫って月の空に去る。廃墟に一切の音は消える。　
（……ほんまに静かや）
　木馬のたてがみを撫で、風に揺れる観覧車と、その上に浮かぶ月をぼんやりと眺める。
「……今日は月がほんまに綺麗やなぁ」
　小さく小さく零して、ふと。回転木馬を囲う鉄柵にもたれる人影を見た。ぎくりと身を固くする静に、影は気にするなとでも言いたげに片手を軽く上げる。
　懐から取り出したライターに火が着く。そこだけ明るくなる光の輪に浮かび上がるのは、サングラスを掛けたどこか軽薄な印象の男の横顔。
　ライターの火が消えるその代わり、男の口元の煙草に微かな火が灯る。
「おっさん今日は暇しててね」
「あなたも、月見か？」
　煙草を吹かしてのんきに笑む、自分とそう年の代わらなさそうな男に問いかければ、のんびりとした首是に黒髪が揺れた。
「いい月だ」
　呟いて、葛西一義は煙草を咥えた唇に笑みを刻む。
　名も知らない男同士、廃墟の月を言葉少なにただ仰ぎ見る。