満月の夜に｜リアクション

満月の夜に

　月の光が一層強くなる頃、寝子島交響楽団による演奏が始まって、多岐川玲栖は幼い頃に暮らしていた米国で耳にしたことのある音楽に紅の瞳を和らげた。演奏の邪魔にならないよう、他の観客の邪魔にならないよう、抑えた声で英詞を歌い始める。
　近くに聞こえた歌に、綾辻綾花は唇に微かな笑みを刻む。歌う玲栖と眼が合って、小さく目礼すれば、明るい笑みが返ってきた。
「ごめんね、うるさかった？」
「いいえ。原詩をご存知なんですね」
「子供の頃、向こうに居たのよ」
　妖艶な雰囲気に反して、話す言葉は女性のように柔らかく優しいのに安心して、綾花はふうわり笑む。寝子島交響楽団の他にも、今日は色んな人の演奏を聞く事ができた。
　月光と篝火に照らし出され、厳かな雰囲気を纏う神社で音楽を聴くのは、心がしんと静まるような、それでいてどこか熱に浮かされるような、不思議な感覚がした。
（きっと神様にもこの音と熱が伝わってますよね）
　神社の甍よりももっと高くに位置する月を見上げる。澄んだ光の綺麗な月は、まるで巨大なスポットライトのよう。
　ふと、足元に小さな温もりを感じて視線を下に向ける。野良猫だろうか、夜の色した真っ黒な猫が脛に頭を擦り付けている。微笑んで指先を伸ばせば、黒猫はその指先をざらりとした舌で舐めて、綾花の膝に体重を感じさせない動きで飛び乗った。綾花の太腿を両の前肢で踏み、落ち着く場所を見定めて膝の上に体を丸める。
　見知らぬ猫になつかれて、綾花は嬉しい笑みを零す。
（今日は特別な夜ですね）
　楽団の音楽に耳を傾ける素振りする猫の背を撫でながら、綾花は鞄の中から寝子島交響楽団のCDのケースを取り出す。夏のネコフェスでも、彼らの何人かにこのCDにサインを貰っている。
　舞台の上には、前回来ていなかった奏者の姿が見える。今回も、彼らにここにサインをもらおう。そうして、
（このCDは私の宝物です！）
　そう、彼らに伝えよう。
　音楽会が終わって家に帰ったら、もう一度余韻に浸りながら聴こうと決めて、綾花は目の前で奏でられる大好きな音楽家達の音に耳も心も集中させる。
「だいぶ盛り上がっているな」
　湧き立つ拍手と歓声を耳にしつつ、フィーリクス・C・柚瀬は適当な観客席に腰を下ろす。宴もたけなわなお月見音楽会の中、屋台で買ってきた酒を片手に月を見上げる。賑やかな客席の真中ではあるけれど、ここからなら月もよく見える。音楽もよく聞こえる。
（個人的には人の集まるところはきらいじゃないが）
　中心に入りたいともそんなには思わない。
　黒猫を膝に乗せた黒髪の少女に、様々の楽器を手に全身で音楽を楽しもうとしている白髪の青年、背筋伸ばして音に聴き入る少年少女、彼らを凝視する和装の青年。それぞれに音楽会を楽しむ彼らの邪魔をする気もない。
（まぁ、イベントの主役は今演奏している奴らだしな）
　ムリに話すこともねえ、と周りの人々を見渡して思う。
　酒を口に含み、舞台から溢れ出す音楽に耳を傾ける。月の色を楽しみ、人々の熱気とざわめきさえも楽しみ、心に思うは古い詩。
「God's in His heaven--All's right with the world!　だったか」
　酒で滑らかになる唇に詩を紡ぐ。あれは春の詩か、と寄せた眉を、まぁいい、とすぐに開く。
（神は天に在り、全て世は事も無し）
　酒は美味い。月は美しい。音楽は楽しい。
　春の歌だろうが秋の歌だろうが、今が平和だということに変わりはない。
　――天に在るはずの神の、少なくとも三柱が寝子島に落ちてきているということをまだ知らずにいる彼は、機嫌よく酒に唇を濡らし、音楽に笑む。
（いい演奏だ）