ドレスに願いをかけて｜リアクション

ドレスに願いをかけて

●ながれ消えた言葉
　荒井景貴が足を後ろに引くのにあわせて、紅林柳霞のシューズが大きく踏み出す。
　――大胆にステップを踏み出せるのは、ダンスの心得があるから？
　もちろんそれも理由のひとつだが、ほんの一部に過ぎない。
　他のペアとぶつからないよう、この人が自分を支えてくれる。
　この人は自分を信じ、リードを任せてくれている。
　信頼という名の絆が、二人のステップをしっかりと繋ぎとめていた。

　間近で見える、景貴の慈愛に満ちたまなざし。
　腰にそえられた温かい手。
　柳霞はその手がどんな経験を積んできたかを、少しは知っているつもりだ。
　フランスの地でパティシエとして修行を積んできた彼の手は、寝子島で店を構えた今もなお、日々のお菓子作りという修行に耐えている。
　朝早くから晩遅くまで、ただ最高のお菓子を食べてもらいたい一心で働く、手。
　時折こうして、生業のお菓子作り以外のことにも真剣になる手。
　そして、いつも柳霞に優しく接してくれる、景貴の手。

　ステップを重ねるうち、いつしか柳霞は夢心地になっていた。
　忙しい日々を忘れ、自分が主催者であることも一旦忘れて、いまはただ景貴の腕の中におさまっている。
（「この幸せな時間がずっと続けばいいのに」）
　わがままな気持ちだとは知りつつも、そう願わずにはいられない。
　幸福な気持ちをくれるこの人と、もっともっと近くにいたい。
　いっそ距離などゼロになって、ずっとこのまま触れあっていられたら。

　他のペアとぶつかりそうになり、景貴が柳霞を抱き寄せる。
「あぶなかった……大丈夫ですか？」
　つかの間現実に引き戻されて、向き直ってから息をのむ。
　気づけば景貴の顔が、さっきよりもさらに近くにあった。
　平気だよ、と言うように笑顔で、けれど無言のまま首を横に振る。
　もしいま口を開いてしまえば、喉から言葉があふれ出てしまいそうだった。

　こんなにも幸せで愛おしいのに、満たされているのに、涙がにじむのはどうしてだろう。
　――景貴さん。あのね。

　静かに、音を出さず。
　柳霞の唇が小さく、たった二文字の言葉をささやいた。