いつかのあの日の、｜リアクション

いつかのあの日の、

　夏の黄昏の終わりの色したハネッ毛を夕風にそよかぜ、磴琥珀は牛乳瓶眼鏡の分厚いレンズ越し、瞳を上げる。
　路地の奥には、昔、父に連れて行って貰ったことのある焼鳥屋。開け放たれた戸口の前、いつも掛かっている縄暖簾が今日は仕舞われている。
(ハナですか)
　今日は臨時営業らしいが、それでも店の前には簡易的な椅子が置かれ、もてなし好きの女将と店員が訪れた客に何やかやと世話を焼いている。
「臨時休業でご迷惑お掛けするから御代は頂いていないの。でも、良かったらどうぞ」　
「そうですね……」
　少し離れた位置で、深酒したのか寝入ってしまった黒髪の女性を膝に乗せて、銀縁眼鏡の男が一升瓶を供に静かに酒を飲んでいる。
　女将の言葉に甘え、
(少しいただくとしますか)
「ネギまと塩手羽と、ビールを、お願いできますか」
「はい、少々お待ちくださいね」
　適当な席に着く琥珀の前に机代わりのビールケースを据えながら、女将が愛想よく頷く。
　程なく運ばれて来たジョッキ入りビールを手に取って、――空から舞い降りたかのように傍らに立つ、一人の女性を瞳に捉えた。
「隣、いい？」
　返事を待たずに隣に座す彼女に、琥珀はいつもの物静かな微笑を見せる。
「……久しぶりですね」
　僅かな動揺も見せずに返された言葉と微笑に、彼女は昔と変わらぬ強気な笑みを瞳に宿して見せた。
(何から話しましょうか)
　悲しみを強さに変えることの出来る彼女に憧れた。
　その瞳の奥に潜む悲しみを癒すことが出来ればと願っていた。
　想いは、全て過去。自身の想いも、彼女も、全て過去に別れて置いて来てしまった。
　女性の為のビールを女将に頼んで、話の糸口を探して黙する琥珀の様子を、彼女は懐かしげに見つめる。
「あの子はどう？　幸せになっている？」
「ええ」
　ビールジョッキと焼き鳥の皿を受け取り、琥珀は頷く。彼女にジョッキを渡す。
「今とても幸せになっていますよ」
「そう」
　ビールを差し出した指に、彼女の指先が触れる。お互いに気付かぬ振りして、揃ってジョッキに唇をつける。
「お父様は、お元気？」
「相変わらずです」
　瞳を交わさず他愛もない世間話を交わす。肩を並べてビールを飲み、焼き鳥を食べる。
　あの頃と幾許も変わらぬ会話と空気の真中、
「なんで私を置いて行ったの？」
　不意に、彼女が琥珀の瞳を真直ぐに覗き込んだ。空気を切り裂き切り込まれ、琥珀は笑みを忘れる。
「すいません」
　琥珀が痩せた胸から搾り出した言葉に、けれど彼女は美しく眉を顰める。
「謝罪がほしいんじゃないの。理由を教えて」
　溜息を吐くように囁かれ、琥珀は胸が苦しくなる。せめて彼女の瞳から瞳を逸らそうと震える瞼を閉ざす。
「……私のエゴですよ」
　あの頃の自責の念を吐き出して、言葉が溢れた。彼女の瞳を見つめる勇気が湧いた。
「私のわがままであなたを巻き込んではいけない、そう思って離れたんです」　
　二人は恋人のように互いを見つめあう。
「エゴイストで最低な男ね」
　彼女が悲しげに微笑む。琥珀が唇を苦しげに引き結ぶ。
　琥珀の次の言葉を打ち消すように、彼女は白い喉を晒してビールを飲み干す。夏の重たい暑気を振り払って立ち上がり、さっぱりと笑う。
「ご馳走様。そろそろ行くわね」
「名残惜しいですね」
「私もよ」
　心底からの琥珀の言葉に、彼女は一瞬、泣き出しそうに笑った。
「……さよなら、――」
　琥珀の名前を最後に呟き、彼女の姿が夕風に消える。
　黄昏に消えた彼女を探して瞳を彷徨わせていて、
「どうかしたの？」
　不思議そうに、女将に問われた。
　夢から覚めたように琥珀は首を横に振る。
「いえ、懐かしくて……愛しかった人を思い出しただけですよ」
　いつものように、微笑む。