いつかのあの日の、｜リアクション

いつかのあの日の、

　軒先に鳴る風鈴の音に耳をくすぐられ、宮祀智瑜は足を止めた。肩先で切り揃えた黒髪が黄昏の色を透かせて柔らかな金色を抱く。
「智瑜ちゃん」
　戸口に設えた簡易ベンチに腰掛けて団扇を使っていた女将が微笑む。
「今日は、ハナさん」
　夕風に風を流されるまま、智瑜は両手で抱えた段ボール箱を大事に抱え直す。中身の枝豆や胡瓜や茄子は、旧市街で祖父母が営む宮祀青果店の自慢の品。
「ご注文のお野菜のお届けです。いつもの場所に……」
「ああ、僕が」
　女将の隣で七輪の炭の様子を見ていた店員が立ち上がり、智瑜の手から野菜入りの段ボール箱を受け取る。
「ありがとうございます、タロさん」
「いつもありがとう」
　丁寧に頭を下げる智瑜に嬉しそうな笑みを見せ、店員は新鮮野菜を抱えて店の奥に引っ込む。
「今日も暑かったですね」
「そうねえ」
　開け放った引き戸に貼り付けられた臨時休業のお知らせを眺めながら、智瑜はふと小さく微笑む。小さい頃、仕事帰りのお父さんを迎えに行った帰り道、家族みんなでよく此処に寄り道をした。
(お父さんはビール、お母さんと私は梅ジュース)
　幼い頃に飲んだ梅ジュースの爽やかな酸味と甘い匂いを思い出して、思わず唇をきゅっと結ぶ。女将のハナさん手作りの梅ジュースは、酸っぱいけれど美味しかった。
「智瑜ちゃん」
　店員のタロがコップの乗った盆を片手に店内から出て来る。いつもは店先に積み上げてあるビールケースと木板で作った簡易ベンチに盆を置き、人懐こい笑顔で休憩していけと手招きする。
　お盆の上には胡瓜と茄子の糠漬けの皿と、梅ジュースの入ったコップが三つ。
　小首を傾げる智瑜の肩に、優しい掌が乗る。
　振り返る智瑜の黒い瞳に、黄昏の光を浴びて見知った顔が映る。
「お父さん、お母さん！」
「智瑜」
「会いに来ちゃった」
　あの不思議な神社で出会った時とは違い、面を被っていない両親に智瑜はめいっぱいの笑顔で抱きつく。
「あのね、お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、喜んでたよ」
　先に逝ってしまった二人に夢の中で会えたと祖父母が喜んでいたことを真っ先に伝える智瑜を真中に、親子三人でベンチに腰掛ける。素知らぬ顔で七輪の様子を見る女将と店員に小さく会釈して、三人で懐かしい梅ジュースに口をつける。
「お酒でもいいのに」
　父を仰ぎ、母を見、智瑜は楽しくなって笑う。今はまだ飲めないけれど、
「大きくなったら一緒にお酒、飲みたいね」
「……そうだな」
　梅ジュースが酸っぱいような、そんな顔で、父がほんの少し寂しげに微笑む。大きな掌で頭を撫でられて、智瑜は小さい頃に戻ったような気持ちになった。撫でられるのも抱きしめられるのも、小さい頃から好きだった。くすぐったくて笑う。
　この夏の出来事を話そうとして、やめる。空の上からいつも見ていると、前にそう言っていた。きっと何もかも知っていてくれる。お父さんもお母さんも、傍に居なくても、いつも見守ってくれている。
「お父さんとお母さんは空の上は大変なの？」
　胡瓜の糠漬けを齧る。祖母の漬ける大好きな糠漬けとはまた味が違うけれど、女将の糠漬けも美味しい。
「夫婦仲良く過ごしてるわよ」
　母が黄昏の光に頬をふんわり紅く染めて微笑んで、智瑜は何だか安心する。地上にいた時よりも、空の上に居る今の方が一緒に居る二人の様子に、自分の事のように幸せな気持ちになる。
「さてと」
「そうね」
　父がコップをお盆に置いて静かに立ち上がる。母が頷き、智瑜の肩を抱きしめる。　
「またね」
　ちょっと泣き出しそうな顔をする母に、智瑜は精一杯の笑顔を向ける。今日も、さよならは言わない。
「来てくれて、ありがとう」
　呟く娘の声に送られ、此処に居ない筈の二人の姿は夕風にふわり、消える。

このページにイラストを設定する