ゆら、ゆらり、と海の月｜リアクション

ゆら、ゆらり、と海の月

◯鼓動する

　明かりの少なくなった旧市街の小道を縫うようにして毒島柘榴と毒島イヴは歩いていた。正確にいうと、縫うようにステップを踏んでいるイヴの後ろを心配そうに柘榴が追いかけている。
「今日も喜好は元気いっぱいだったネ！」
「おう」
　店を閉めてから、パティシエ見習いの甘喜好を洋菓子店『Raton』に迎えに行き、家まで送り届けるのは、毒島夫妻の日課だった。子どもができたと知った喜好は申し訳なさそうにしているけれど、「フフッ、妊娠発覚したからあまり激しい運動できないからネ、ちょうどいい運動になるヨネ！」と言うと喜好はそのことについてもう何も言わなかった。
「エヘへ♪　喜好もお腹触ってくれたネ！　顔、真っ赤にして、カワイかったノ！」
「……そうだな」
　口ではそう言いながら柘榴が可愛いと思っているのは、イヴ自身のこと。
（ったく、イヴの奴、浮かれやがって）
　嬉しそうに飛び跳ねながら歩く姿は、柘榴にとっては心配の種でもあるけれど。それでもやはり幸せそうに微笑んでいる妻の姿を見るのは、悪くない。
（まあ、久々に授かった命だ……あいつにとっちゃ、嬉しいんだろうな）
「やったネ、喜好！　家族が増えるよ！って言ったら、喜好、目キラキラさせてたネ」
　喜好も祥子も家族みたいなものだから。それはいつからだったかわからないけれど、いつの間にかそういう付き合いになっていた。少なくとも柘榴たちにとっては家族同然の存在だ。
「ああ。それにアイツ、子どもが生まれたら、お菓子作ってあげるんだって張り切ってやがったな」
「そうネ！　女の子の名前ばっかり考えてたネ」
　お姉ちゃんの名前に合わせると、いちごちゃんかな、それともみかんちゃんかな。それともそれとも、ももちゃん？
　喜好の提案は、甘くて可愛らしい名前ばかり。けれど柘榴もイヴも、そんな祝福が素直に嬉しい。
「アリガトって言ったら、喜好、また赤くなってたノ！」
「ま、いつものことじゃネーか」
　どちらかというとお礼を言われたことよりも抱きしめられたことによって、イヴの、柔らかいマシュマロのような胸に押しつぶされたことが恥ずかしかったのだろうが。
（ま、アイツも年頃の男だからな）
「フフッ」
　イヴの笑い声がコロコロと夜道を転がっていく。本当は柘榴だって飛び上がるくらい嬉しいくせに、彼女のその笑顔を見ていると妙に冷静になってしまうのだ。
（イヴが必要以上に浮かれやがるから）
　誰に言い訳をするわけでもないのに、柘榴はそんなことを思う。ちょっと冷静すぎて、白状かもしれないと柘榴は思う。
　けれどイヴが進む先にある石ころを蹴り飛ばし、車がやって来れば庇うようにイヴの前に出る柘榴のことを、きっと子どもは頼もしく思っていることだろう。
（娘も、喜好のガキに祥子さんも、皆驚いてたが祝福してれて、まったく、ありがてぇことだ）
　柘榴はすっと目を細め、イヴを見つめた。まだお腹は目立たない、どころか見た目上にほとんど変化はない。だというのに祥子なんてミルクは大丈夫？　産着は足りてるなどと気が早いことを言い出している。
（そういや、）
　柘榴はふと思う。あの日も、喜好を家まで送っていったなぁ、と。
（計算すると、たぶんあの日に……）
　思い出しただけで、イヴのねっとりと湿った吐息が耳を撫でるような気がした。ドクンと脈打ち、腹の底に血が溜まっていく。きっと、顔も赤くなっているに違いない。
　柘榴はさり気なく、あくまでもさり気なく、目線を下げる。その先にはイヴの影があり――影は不自然に揺れた。
「ふぁ？」
　影が揺れるということは、本体も――
「イヴッ！」
　柘榴は駈けた。崩れ落ちる妻の元へ。
　きっと。顔は白くなっているに違いない。