ゆら、ゆらり、と海の月｜リアクション

ゆら、ゆらり、と海の月

◯海の狭間に星空を見て

　御剣刀の腕には、まだ小山内海の熱が残っている。
（やっぱり、背負った方がよかったかな……）
　海の驚いた瞳が脳裏に蘇る。
（だが、力の入らない状態でスケッチブックにまで気を使わせるわけには）
　きっと、きっと。スケッチブックが落ちたら、彼女はもっと不安になるだろうと刀は思う。力が入らなくて書けないのと、手元からこぼれ落ちてそもそもスケッチブックがないのとでは彼女の気持ちはぜんぜん違うはずだ。
（……大丈夫かな）
　彼女の荷物を拾い上げた瞬間、刀の胸に不安が点々と浮かび上がってきた。寮まで送り届けたら、面倒なことになるだろうから。そう思ってベンチに海をひとり置いてきた刀。でもそれは間違いだったんじゃないだろうか。さらに状態が悪くなったりしないだろうか。考えれば考えるほど思考は悪い方へと流れていく。
　刀はしっかりに荷物を抱え込み、帰り道は行きよりもずっと早く駈けた。
「小山内……！」
　視界に入った彼女は、ベンチに突っ伏していた
「大丈夫か？」
　海を抱き起こすと、彼女の頬に光る粒が残っているのに気がつく。
（泣いて、たのか）
　瞬時、刀の中の血が凍りついたような気がした。けれどすぐに自分に鞭を振るい、海の横に座る。崩れ落ちないよう自分にもたれかからせる。それから海の肩にしっかりと手を回して、倒れていかないように固定する。傍から見れば、抱き寄せているような形だ。
「俺が傍に居るだろう？　大丈夫だよ」
　海は自分の身体が思うように動かない事に不安を感じている。それは触れている肌から、痛いほど伝わってきた。
（その不安を取り除いてあげたい）
「大丈夫だよ」
　空いている方の腕で、海の背中や腕や頭を精一杯やさしく撫でる。
（少しでも、楽になるといいんだけどな）
　どこを撫でても海の身体に筋肉の緊張はみられない。だがそれはこの不思議な症状ゆえ。撫でれば撫でるほど海に嫌な思いをさせているんじゃないか。ときおり不安になる。けれど今一番大切なのは、海の気持ちが落ち着くこと。だから刀は「大丈夫だよ」と繰り返した。
　どれくらい繰り返しただろう。海の身体がぴったりと刀に張り付いて、お互いの体温が融け合った頃。もう触れ合っているという違和感がなくなった頃。海は刀を見つめるように首を動かした。
　刀を見上げる海は――いったいなんと表現したらいいのだろう。ただおそらく彼女は微笑んでいる。薄く開けられた瞳は慈愛に満ちていて、三日月のような弧を描いている。けれど今にも消えてしまいそうな儚さがあって――笑顔というには、少し悲しい顔。
　でも海は悲しんでいるんじゃない。自分の気持ちを伝えられなくてもどかしいんだ。
　彼女の気持ちは、たぶん。
　ありがとう。
　交わる視線と視線を通って、その感情は刀の中に入ってくる。海の温かい感情が、目から全身に広がって、目のあたりが熱く、赤くなるような気がした。その熱はあっという間に顔中に広がって、刀はどうしようもないような衝動に駆られる。刀は海をぎゅって抱きしめたくて、仕方なくなる。
　海を支える手に力がこもる。彼女が動けないのをいいことに、引き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたいような――燃える感情。
（ダメだ……そんなこと、）
　刀は逃げるように海から視線を逸らす。その先にあるのは満天の星空と――そこにひとり異物のように浮かぶ月。空に交わるようで交わりきらない、白磁の星。
「綺麗だ」
　今度こそ迷いなく呟いた言葉に、海は小さく、少し照れくさそうに頷いてくれた。