落ちるだけの｜リアクション

落ちるだけの

　凄まじい風の音が耳を劈く。
　刹那ごとに風の壁が体を殴る。氷塊の群に撃たれるように風になぶられ、手足が髪が千切れそうに痛む。皮膚が引き裂かれそうに痺れて感覚を失う。
　空が、どこまでも青い。
(……ああ、落下しているのね)
　これ夢なのかしら、と瞳を瞬かせ、大天使天吏は青く蒼い空の果てを眺める。
　視界の端、遥かに弧を描いて水平線が見える。太陽と月の光を集めて輝く地球が見える。
　地表に渦巻く雲さえも眼下に見て、
(成層圏からの落下)
　ぼんやりと考えながら、落ちる。
　息の出来ぬ苦しさにも頭痛にも構わず、内臓が捩れ血液が燃え上がるような苦痛にも構わず、
(重力加速度と空気抵抗に従って加速しながらやがて地面に衝突する、と)
　まるで画面越しの実験を眺める学生のような冷めた視点で自分の状況を分析しつつ、落下の感覚に身を委ねる。
　五体が砕け散るまで、五分も掛からない。
　血と肉の詰まったこの体は、どこに落ちるのだろう。大地か、海か。落ちた体は原型すら留めぬ欠片となる。皮膚は破れて千切れ飛び、骨は粉々に破裂し、血肉は雨粒のように弾け飛ぶ。
　この身は、
(私は、残念ながら人間)
　鳥の様に胴体を軽くし胸の筋肉を発達させた生物ではない。
(彼らの円弧翼も、何もかも、私にはない)
　彼らのようには決してなれない。
　翼を広げて大空に舞い、遠くまで鳴き声を響かせられる鳥たちのようには、なれない。
（第一翼の上下に空気が流れる体勢を取れない以上揚力は発生しないので例え私に人間の体を支えきれるに相応しい翼と筋力があったとしても助かりはしないだろうが）
　抑揚の無い呟きを胸の内に零す。どこまでも冷静に己自身とその状況を断ずる。
　この体が地面に衝突すれば、それが大地に与える衝撃は如何程か。
　天吏は自分自身を物体と見做す。苦痛と落下速度に途切れそうになる意識の中、計算式を組み立てる。凄まじい状況にそぐわぬ複雑な計算を冷めた頭で処理しながら、ふと、思い出す。
(もし私が落ちた先に鳥の巣が合ったらどうしよう)
　握ればあっけなく潰れてしまう、柔らかな毛と軽い骨と僅かな血肉で出来た雛たち。それを守る親鳥たち。私の体は彼らの営みを全て打ち壊してしまう。この身ごと粉々に砕いてしまう。
　鳥達の命を奪ってしまう可能性に思い至った途端、感情を映さぬ瞳にもどかしげな、悲しげな色が浮かぶ。
(……いや、鳥以外の事も考えなければ)
　自身の事は微塵も考えず、僅かの間に接近した地表を瞳に映す。
　渦巻き流れる雲のその下、形あるもののように聳え立ち蠢く積乱雲のその下、青く輝く海が、海に立つ白波が見える。深緑の森を血管のように広がり流れる川が見える。蒼く連なる山脈が、黄金色の砂漠が、灰色の町が、見える。
　どこにでも、生物は存在する。皆、命を繋ぐために生きている。
(私の落ちた衝撃で彼らの営みに支障をきたしたら大変だ)
　それでも、この身は落ちる。落下を止める力を持たぬ身は、ただ落ちるだけ。落ちて落ちて、――地表に生きるものたちの命の営みを破壊するだけ。
(なら)
　そうすることしか出来ないのならば。
　彗星のように落ちるがまま、天吏はその白い頬に暗い笑みを刻む。柔らかな形した瞳の奥に禍々しいほどの憎しみと狂気にも似た破壊衝動の炎を宿す。
「汚い人間の上に落ちて皆消えればいいのに」
　桜色した唇を開き、甘く囁く。
　そうだ、それがいい。
　出来るなら、あの時友達になってくれたクローネを苛めるもれいび達と、大嫌いなあの猫――テオの上に落ちるのがいい。皆みんな、この身ごと潰れてしまえばいい。