落ちるだけの｜リアクション

落ちるだけの

　耳元に風の音を好き勝手喚かせるまま、微塵も動じぬ表情のまま、斑鳩遙は白衣のポケットに手を突っ込む。空に身を横たえ、落ちる。
　風に抗うも、落ちまいともがくも、疲れるだけ。
　諦念に委ねた瞳を巡らせれば、彼方に見えて届かぬ水平線が、月光に青く輝いて見えた。
(このまま落ち続けて最後はどうなるんだ)　
　風に抱かれ落下しながら、焦るでもなく思う。
　遥かな下には、鏡じみた凪の海。風に散らされ雲の消えた夜空を映しこみ、空の蒼をその深淵まで吸い込む大量の苦い水。
　寂寞の色した月夜の海へと吸い込まれながら、最後を思う。
　落ち続けたその先で、
(あいつと逢えるなら……)
　自殺した友を、――時任彼方を、想う。
　彼が死んだ後の己を鑑みる。
　時任の死後、己も少しずつ死んでいる。
　毎日少しずつ自殺し続けているような己に気付いている。
　小器用に日々を処し、惰性で生き続ける己に気付いているからこそ、ゆっくりと死に向かうことが時々酷く億劫になる。
　海と同じに夜空を映す瞳を閉ざす。
　後追いをしたと思われるのは癪だが、
(もう、いい)
　水の匂いを感じた瞬間、全身に衝撃が走る。
　青く冴えた月夜の海に墜ちる。
　瞳を開く。月の光を集めて揺蕩う泡が見えた。揺れ惑うて明るい水面を目指す泡に紛れて、雪珠にも似た鈴蘭の花が見えた。水に震える鈴蘭の花は、大学の時に時任に貰った香水の原料。
　――お前は根っこに毒があるから
　鈴蘭の花束を差し伸べて、あの時も意地悪く嗤っていた。
　鈴蘭の毒が海に滲む。
　左腕から鮮血が滲む。
　鈴蘭の白い花さえ血の色に染めて、凄まじい速さで海が血の赤に汚れていく。
　吐き出した息が紅い泡になる。
　――何であんたみたいな詰まんない男が一番近くに居るのよ！
　大学の時に聞いた、時任の熱狂的ファンの罵声が耳に蘇る。
　あの女には散々に嫌がらせを受けた。時任には黙っていたが、やがて気付かれた。女に直談判を申し込んだ時任は、
　――貴方が悪いんじゃない！　貴方が！
　逆恨みした女にナイフで刺されかけた。
　あの時、どうして咄嗟に庇ったのだろう。
　あの後、女はどうしただろう。
　時任を守った理由など知らない。女がどうなったかも知らない。興味がない。
　時任を刺すはずだったナイフで左腕に怪我をして、利き手じゃないから問題ないと言って、珍しく本気で怒られた。
　不思議だった。
　女にはどこまでも冷静に対処していた時任が、どうして己のこんな怪我に激昂したのだろう。
　鈴蘭の花が泡に揺らぐ。毒の海に、腕から溢れでた血の色に滲んだ海に、体が沈みゆく。
　水が重なり、音が断たれる。光が呑まれる。
　砕けた白骨の色した水底に辿り着いて、色を失った水底に没したピアノを見つけた。ピアノを弾く時任を見つけた。
　水の静寂に阻まれ、音が聞こえない。
　届かない音がもどかしくて、時任の傍に近付く。憑かれたように弾き続けていた時任の指が止まる。不意にその手が伸びる。深爪の繊細な指先から眼を離せずにいるうち、左腕を掴まれた。ピアノに押し付けられる。鍵盤の角が露わになり傷口を抉る。傷口が開く。激痛と同時、黒い血が噴き上がる。
　左腕に額を押し付け、時任は動かない。黒く紅い血の揺らぎのせいか、その背中が震えて見えて、
「憎いのか？」
　思わず言葉が零れた。
「責めているのか？」
　時任は応えない。時任の声が聞こえないように、この声も時任には届いて居ないのかもしれない。
「泣いているのか？」
　とめどなく血を溢れさせる左腕に抱きついたまま、時任は肩を震わせる。
　自死したピアニストの背中を見下ろし、遙は瞳を伏せる。
(皮肉だな)
　そう心に呟いて、……笑ったのかどうか。自分ですら判じかねる。
　――海の中じゃ、嗚咽も届かない。　

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