鏡の中の、あなた。｜リアクション

鏡の中の、あなた。

●浮舟久雨の場合

　久雨がここへ訪れたのは偶然と言ってもよかった。確かに噂話としては聞いていたが、わざわざ確かめる程の話でもない。噂話は心の片隅へ追いやられていた。
　忘れ物を取りに来ただけだというのに、今自分は鏡から現れたもう一人の自分と対面している。
　鏡から現れた自分は、光りのないどこか虚ろな目をしていて、束ねていない長い髪は無造作なままだ。そして、虚ろな目を久雨へと向けた。

『ねぇ……どうしてあなたは……私を押し込めてなかった事にしようとするの……？』

　その問い掛けは久雨へと響く。そして久雨は把握する、これは私の弱い部分なのだと。
　自分は強くあらねばならない、弱い自分など認める訳にはいかないのだ。虚ろなもう一人の自分の目とは対照的に、久雨の瞳はその意思を露にする。

「私は弱い自分など必要ないからだ。常に強く有らねばならんのだ」

　静かに燃える青い炎のような意思を感じさせる、強い言葉。けれどもう一人の自分は無表情なままで久雨の言葉を否定する。

『必要……ない……？違う……必要か、そうかではないの。そういう、事じゃないわ』
「貴様と禅問答をするつもりはない」
『変わろうとしても、覆い隠そうとしても……本当のあなたは、私、なのに……。空っぽで……何も知らない。何も、無い。ただの……』
「黙れ」

　もう一人の自分の言葉を遮るように、久雨が言葉を放つ。こんな言葉に耳を貸してなどならない、弱い自分など自分ではないのだ。まるで自己暗示にも似た思いが久雨の心を支えていた。

『……そう。だったら……仕方ない……わね？』

　何がだ、そう言おうとした瞬間、もう一人の自分は素早い動きで久雨の背後と取る。予想外の早さに、久雨の判断は一瞬鈍ってしまった。そしてその隙に、久雨の長い髪を束ねる銀色の髪留めが、もう一人の自分の手の中に輝いていた。
　髪留めが奪われた、弱いはずのもう一人の自分に。あってはならない事であり、何よりその髪留めは久雨にとってとても大切な物だ。もう一人の自分を睨み付けたその時、久雨は気が付く。
　今、自分が居る場所が階段の踊り場などではなく、幼少の頃の自分の部屋だという事に。はっと前を向くと、もう一人の自分は髪留めを弄びながらふわりと浮かび、ベランダに向けて枝を伸ばす木へと移動している。
　そして真っ直ぐに久雨を見つめながら、髪留めを階下へ落とすような仕草を見せた。

『……いらないの？これ……あなたの支え、でしょう？』
「……ッ！」

　挑発するようなその声、仕草にかっとして久雨はベランダから身を乗りだし、大人一人支えられそうな丈夫な枝を掴む。

「はぁっはぁ……っ」

　息が乱れる。震えるその手は枝を掴む事でいっぱいいっぱいだ。

（私はあの日、ここから落ちて……その後は、その、後は……）

　あの日、思い出すだけで身体が震える。けれどあの髪留めは久雨が何よりも大切にしている物、取り返さない訳にはいかないのだ。久雨が意を決し、もう一人の自分が居るその先へ体を移そうとしたその時。
　バキバキバキ、という嫌な音が久雨の耳を襲った。――掴まっていた枝が、折れたのだ。

「ひっ」

　短い悲鳴を上げて、久雨は落ちていく。二階ほどの高さのはずなのに、地面へ叩きつけられる感触と痛みもなく、ただ落ちていく。
　久雨が落ちていくその様子を、光りの無い眼差しで見つめるもう一人の自分は呟いた。

『……やっぱり、少しも分かってくれていない』

　何の感慨も無く、期待などひとつもしていない。そんな表情のまま落ちていく久雨を眺めて、もう一人の自分は消えた。
　久雨が目を覚ますと、そこは木の下ではなく校舎の踊り場。身体に痛みはなかったが、何故かその手には髪留めを握り締めていた。

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