舞台に立つ即興オーケストラの人々が最後の演奏を終えた。
　拍手に送られ、舞台袖に退くオーケストラに代わって舞台に飛び出すは、次の舞台の準備に掛かる補助スタッフ達。
「……裏方が完璧にやらねえと、表が完璧にやっても、舞台が台無しだからな」
「だよね」
　裏方の鳳翔 皐月や塔尾 松生が本番のまさかのトラブルに備えて準備する。斑鳩 遙が舞台装置の設置の的確な指示を補助スタッフ達に伝えて回る。
　迫る開演の気配に、舞台袖に控えるNCCの面々に緊張が走る。
(NCCのみんなと『真夏の夜の夢』の劇)
　オリエンタルな衣装の胸にヴァイオリンを抱き、結城 日和は大きな息をひとつして、真夏の太陽の色した瞳を上げる。柔らかく波打つ髪を結わえるアンティーク風のリボンをそっと指先で撫でる。
　胸に抱いたヴァイオリンに、ムクゲの花のコサージュが触れている。
(……うん、提案してよかったな)
　上げた瞳に、周囲に立つNCCの皆がそれぞれ身に着けている花のコサージュが映る。それぞれに花の種類は違うけれど、
(みんなで一緒に一つのことをやってるって感じ)
　一体感を感じることができる。
　リボンを撫でた指先で、胸元のムクゲの花びらを弾く。強い陽射しを浴びて咲く、真夏の花。『真夏の夜の夢』にいいかなと思って選んだ花。それに、
(花言葉は、『信念』)
　心に据えた『信念』を確かめて、日和はヴァイオリンを大事に胸に抱く。思いを形にするように、閉ざしているだけでも自然と笑みの形になるあどけない唇の両の端をきゅっと持ち上げる。笑んでみせる。
(私の信念は、音楽を楽しむこと)
　幼い頃から音楽が好きで、奏でるだけで幸せだった。昔はコンクールで賞をもらったこともあったけれど、今は、
(……苦しい音楽は嫌なの)
　こんな時でも心を覆おうとする、言葉にもならない暗い思いの霧を、日和はもう一度深呼吸して追い払う。
　周りを見回す。
　ヘレナ役に周りから大プッシュされた、元は臨時の手伝いだったはずの音海 なぎさが、どこからどう見ても可憐な乙女の顔で淡い微笑みを返してくれる。ハイビスカスのコサージュをつけた青のドレスの裾を揺らして、頑張ろうね、と少女の仕種で励ましてくれる。
　トランペット奏者の御陵 春哉が、フリージアのコサージュを飾った白いギリシャ風衣装の胸に相棒のトランペットを抱きしめ、緊張の面持ちで、けれど日和と目が合った瞬間、緋色の眼を明るく笑ませてくれる。元気付けようとしてくれる。
　今まで一緒に練習を続けてきた仲間から元気を貰い、日和は心を強くする。
　自分に楽しい音を、人に楽しんでもらえる音を、そんな音を奏でる為の努力は惜しまないけれど、
(順位を気にして演奏をするのはもう止めたいんだ)
　深呼吸する日和の隣に控えて出番を待ちながら、なぎさは脳裏で自身の演技と台詞を繰り返し思い描く。この舞台の上で、演劇専攻の力を存分に発揮しようと思い定める。
　必要があれば何だって演じよう。例えばもしも万が一、アドリブでキスシーンを迫られたとしても。
（それはボクの役者魂だから）
　男の娘の決意の横顔を視界の端に捉え、春哉は緊張に唇を震わせる。
　NCCを含め、色々な人々と音楽を楽しむことが出来るネコフェスを、幼い頃からトランペットに習い親しんできた春哉はとても楽しみにしていた。けれどそうは言っても、
（あばば緊張します……）
　大舞台を前にして心臓が激しく高鳴る。手が震える、膝が震える。
　震える全身で、春哉は相棒のトランペットに縋りつく。大好きな楽器に祈りを捧げるように頬擦りする。
（ううっ今日も素敵ですよ伊左衛門、頑張りましょうね……！）
　トランペットを抱きしめる春哉と不意に眼が合って、花厳 望春は明るい茶色の瞳を瞬かせた。お互いに身動きを止めて数秒、しっかり見詰め合ってから、ほとんど同時に俯いて視線を逸らす。
（……そ、そういえば、発表会とか正直好きじゃないんだよなあ……）
　何故だか湧き上がる羞恥心をどうにかしたくて、望春は心の内で小さくぼやく。所属しているNCCがネコフェスに参加することになって、いい機会だからと参加したはいいものの、
（注目されるの嫌だし、そこで失敗するのはもっと嫌だ）
　役者として舞台に立つのは恥ずかしすぎるから、と奏者として参加することを選んだのに、そう言えば、昔から、ここぞという時に決まって弱かった。昔通っていたピアノ教室でも、発表会は苦痛でしかなかった。
　照れ隠しにつつき出した思い出に、次々と後ろ向きな考えばかりを呼び起こされて、望春はちょっと困って首を捻る。余計な力の入った肩の強張りを解こうと片手を首にやって、胸に飾ったセントポーリアのコサージュが眼に入った。
　NCCの統一モチーフとして身につけることになった花のコサージュ。望春は視線を巡らせる。周囲に立つ皆がそれぞれにつけた、それぞれに好きな花のコサージュを視線で辿る。
（注目されるかもしれない、失敗するかもしれない）
　でも、と仲間を見る。
（……でも、今はみんながいるから大丈夫なはず）
　俯きがちだった頭をもたげる。瞳を真直ぐに前へ上げる。
（俺なりの演奏を、楽しみながらやろう）
　心中のざわめきを自力で抑え込み静かに出番を待つ望春の脇、
「きたぞネコフェス！」
　慌しく妖精王オベロンの衣装に着替えながら、ロベルト・エメリヤノフは小声で気合を入れる。スミレのコサージュも忘れず衣装にくっつけて、
（やっぱり本番前は緊張するな……スターステージだからまだよかったけど……）
　内心でこっそり呟く。役者募集のお知らせを見てつい立候補してしまったけれど、それでも、やれることはやった。
（きっとなんとかなる、けど、……タイタニア役がこういうの上手そうなエリューシアな分よけいに……）
　オベロンの妻、妖精の女王タイタニアとして傍らに立つエリューシア・セリアンを盗み見る。
　透き通るような銀髪には花飾り、衣装映えするしなやかな体躯に纏わせるは、女王然として威厳のある衣装と透明翅。
　白い頬に銀色の睫毛の影を落とし、エリューシアは唇に静かな笑みさえ湛え、凛と立っている。
　舞台で歌えることが限りなく嬉しそうなその横顔に、ロベルトは思わず余計に緊張する。
（いや、でもこっちだってやれることはやったし）
　それに、ともう一度気合を入れなおして拳を作る。
（一度舞台に立った以上はなにが何でも最後までやりきらないとね）
「きたぞネコフェス！」
　ひとり拳を突き上げるロベルトの後ろで、御薗井 Ｅ セレッソが鮮やかな赤毛を元気に跳ねさせ駆ける。出番までの間を裏方の手伝いに費やし、音響や楽器の置き場所の最終チェックをしていた浅山 小淋にその小柄な身体ぜんぶで抱きつく。



「？！」
　声を発することの出来ない小淋が海色の瞳を見開く。
「大丈夫ナノ、小淋チャン！」
　セレッソは空色の瞳で、緊張しがちな小淋の瞳を覗き込む。朗らかに笑う。
「だって、なかよしの人やネコフェスを通じて知り合った人たちみんなで今日の為に練習してきたノ！」
　だから、と元気一杯の瞳を、舞台裏に控えるNCCの仲間たちに巡らせる。緊張の面持ちで佇むサナリアナ・アークロットの手をぎゅっと握る。
「だからきっと大丈夫ナノ！」
　大人しげな水色の瞳を瞬かせるサナリアナを仰ぎ、セレッソは力強く宣言する。
「……はい」
　NCCに入会して程無くして参加することになったネコフェスに、寝子島に来て初めて参加する大きなイベントに、ひどく緊張してしまっていたサナリアナは、セレッソの人懐っこい笑みに思わず顔を綻ばせる。
　緊張している人を見つける度、顔中で笑って励ますセレッソにつられ、小淋は優しく微笑む。長い黒髪を揺らして頷く。
　NCCに入ってから、大きな舞台に立っての演奏はこれが初めてで、楽しみな半面、セレッソの言う通り、確かに緊張もしてしまっていた。
　出番は最後の演奏の指揮で、それまでは裏方の手伝いをしているつもりだったけれど、緊張したままでは、きっと手伝いもままならなかった。緊張を解してくれたセレッソに向け、小淋は謝意を籠めて頭を下げる。
　演奏の指揮を任されたことに対する戸惑いは未だ残ってはいるけれど、任せてくれた皆の期待に応えられるよう、
（頑張ります）
「ワタシ、ブランクはあるけど練習たくさん頑張ったノ！　低音域が少なめだから、精一杯頑張るノ！」
　NCCから借り受けたチェロを小柄な身体でパワフルに抱え、セレッソはそばかすの浮いた頬にぎゅっと力をこめる。名前の由来でもある桜のコサージュを忘れず衣装につけているかちゃんと確かめ、セレッソは背筋を伸ばす。
　舞台準備をしていた皐月からゴーサインが放たれる。
　最終確認を終えた篠崎 響也が静かに顔を上げる。痩身にも関わらずよく響く声を舞台裏に通らせる。
「――皆、行こう」