この手で、君と。This is where we begin｜リアクション

この手で、君と。This is where we begin

　薄く紫がかった天頂から、群馬の山々へ淡いグラデーションが優しく広がっている。
　冬の天藍色とは違う空には、陽光に煌めく積雲たちが急ぎ足で駆けていく姿も見えた。
　彼らの背中を押している柔らかな風が、石畳の傍で春を告げる花々の香りを巻き上げる。運ばれた香りに目を伏せた稲積柚春は、包まれる感覚に背を押されながらも、今を進むために振り返った。
（あのときとは、違う……）
　遠くイギリスから移築・復元されたバルミュラル城へは、去年の２月末にも訪れている。
　英国気分を味わえるだけでなく、恋に纏わる逸話も随所にあるこの場所で、ウォルター・Bと幸せな思い出を紡ぐ……はず、だった。
　けれど実際は、なんとも苦い思い出ばかり。ウォルターとはデート中にすれ違ってしまうし、念願だった恋人証明書も出せなくて……同行してくれていたメアリ・エヴァンズにも、きっとたくさんの心配をかけた。

　告白をして浮かれていた一昨年の12月。
　本当に卒業まで待っていてくれるだろうかと不安になっていた、春への変わり目。
　……あれから、１年と少し。

　再びこの地を訪れた柚春は、真っ直ぐバルミュラル城を見上げる。
　今度は、今回こそは。待ちわびた記念日が訪れると確信しながらも、柚春は自信を持って言えなかった。
「……ね、あのさ」
　今日の旅行はウォルターが計画してくれたけど、きっと記念日になるのは『今日』じゃない。
　この場所に改めて連れてきてくれたのは、またあんな思いをするためじゃないし、２人の関係が大きく変わるためだって信じている。
（でも、今日は……）
　1373年3月31日。つまり書面上はまだ、柚春は寝子島高等学校に在籍中。
　その上17歳、未成年。焦り失敗した去年と、何ら状況は変わっていない。
　続ける言葉を探すように、柚春は右薬指のペアリングを撫で、精一杯はしゃいだ声を出した。
「……展示室、見てみよっか！」
　今はどんな特集をしているかな、去年見逃している物があるかも――そんな言葉を並べる彼女が、無理をして笑顔を作っているのがわからないほど、ウォルターも鈍くない。
　例え恋人関係じゃなくても、彼女の想いを受け取り、自身の気持ちを伝えたあの日から重ねた日々に、嘘なんてなかった。
　でも、だからこそ。ウォルターが曖昧に微笑んでしまうのだと柚春も知っている。
　まだ教師と生徒として、僅かばかりの線引きが必要で……飛び越えられる日は、今日じゃない。
（分かってる……でも、それなら）
　疑問を飲み込む柚春の耳へ、鐘の音が届いた。塔の上で、今日も誰かの愛が固く結ばれたのだろう。
　幸せの音色は周囲も笑顔にさせて、拍手すら飛び交っているのに。柚春は羨ましげに塔を見つめ、本当にダメだろうかと聞くつもりで、そっとウォルターを盗み見る。
　彼の瞳は塔に向けられていた。でも、横顔に浮かび上がるのは、どこか他人事のような……複雑な思案の色。
　とても「僕たちも」なんて紡ぐことはできずに、柚春は展示室を指さして「早く行こう」と笑うのだった。

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