Mon seul Tresor｜リアクション

Mon seul Tresor

　手から滑り落ちた万年筆は、音を立てて床の上で壊れた。言嗣は目にかかる髪を後ろに掻き上げながら、膝をついて万年筆を拾い上げた。この万年筆は、祖母の形見の品だったが、いくら形見とは言え、物は物、消耗品だ。幾ら大事に使おうとも、いつかは壊れてしまう。仕方がない事だと分かっていたが、それでも残念でならない。
　当然、万年筆が壊れた事自体に対してではない。遺品とは、それ自体が大切な物というわけではなく、それを通して嘗て在った何かを想起する為にある。
　この場合は、やはり祖母だろうか。
　もう何年も前になるだろうか。もし存命ならば……いや、いいだろう。もしもという仮定を論じたところで、事実は変わらないし変えようもない。悪戯に空虚な幻想を抱くほど、子供ではない。祖母は既に他界している、その事実は揺るがない。
　そう、祖母は既にこの世にはいない。どんなに想ったとしても、二度と生きている姿を見る事は出来ないし、記憶の中の祖母が年月を積み重ねる事もない。
　祖母の時間は、あの時に止まってしまった。
　……私が、止めた。

　―― 私が、祖母を、殺した……。
　勿論、直接的にそうしたわけではない。だが、これは変えようもない事実だ。
　あの人ならば、そんな事はないと笑い飛ばすだろうが……否、事実周りの者も同じ事を言っていた。
　あれは事故だ、と。
　しかし、周りがそう言ったところで、現実は変わらない。どんなに生易しい慰めの言葉をかけられたところで、私の中の真実は動かない。
　アレは確かに、私の責任だ。
　考えの浅い、つまらない子供だった。
　無邪気と言う名で自身の愚かさを偽り、子供という言い訳で全てを免れる、救いようがないほどどうしようもなく愚かな子供だった。
　……そう、今と同じ。
　あの時から、少しも成長していない。
　私は……

　目の前の靄が消え、言嗣は黒い瞳を瞬かせると周囲を確認した。普段と変わりない世界の様子に息を吐き、一度だけ強く目を瞑ると髪を掻き上げた。
「いや、畑生言嗣という人間に関しては、確かに途轍もなく、そして途方もなく素晴らしい人物だ。ふふ、こんな時でも自分に嫉妬してしまうね……！」
　言嗣は芝居がかった口調でそう言うと、御剣刀の肩をポンと叩いた。
「ふ……久々に思い出したが、悪くない気分だ。趣味が良いとは思わんが……礼を言おう」
　突然そんな事を言われても、前後関係が全く分からない刀は「お、おう……」と言うしかない訳だが、言嗣は彼の困惑などお構いなしに、教室を後にした。

　思い出は美化させず、しかし過去を足枷とせず。
　未来を忘却に用いず、だがそれを背負わず。
　今と言う時で、共に歩を進めよう。
　ふと足を止め、窓から空を仰ぎ見る。死者が空にいるとは思っていないが、こうも澄んだ青空だと、そこに亡き人の面影を見てしまう。
　祖母よ、どうか見ていてくれ給え。
　この先の私の未来を、一番美しい場所から ――。