Mon seul Tresor｜リアクション

Mon seul Tresor

　視界が歪んだ後、周囲を取り巻く空気がなんとなく違っているような気がして、志波武道は目を細めると、ポケットに手を入れた。ここがどんな世界なのか、きちんと調べてみなければ。もし違う世界だとしたら、何としてでも自分のいるべき世界に帰らなくてはならない。
　指先に触れたスマホを引っ張り出し、自分のものではないソレに目を丸くする。どうしてこのスマホがポケットに入っているのか考えを巡らそうとして、ふと先ほどの少女が言っていた言葉が脳裏を過ぎり、武道の顔から血の気が引いた。
　嫌な予感がする。もしもあの言葉が現実になっていたとしたら……！
　走り出した先で見慣れた後姿を見つけ、武道は歩を緩めると引き攣っていた表情を普段通りの笑顔に戻し、いたって軽い調子で声をかけた。
「小淋ちゃんだー☆偶然だねー、家、こっちの方だっけ？」
　浅山小淋の綺麗な青色の瞳が驚いたように武道へと向けられ、すぐに苦しそうな表情で目を伏せるとスケッチブックに何かを書いた。
『志波さん……そろそろ、現実を受け入れるべきです』
　読みやすい綺麗な文字は、震えていた。小淋の大きな瞳には涙が溜まっており、武道は大いに焦った。何が原因で泣かせてしまったのか、全く分からなかった。
「えぇっと、何の事か分からないけど、小淋ちゃんに涙は似合わないぞ！」
　お茶目に言ってみるものの、更に小淋の表情を曇らせるだけだった。悲痛な表情のまま、林檎のついたシャーペンを動かす。さらさらと書かれていく言葉に、武道は息を呑んだ。
「ま、まったまたー、小淋ちゃんってば、そんな冗談……」
　小淋がそんな悪趣味な冗談を言うような子ではないと言う事は、知っていた。けれどソレはあまりにも受け入れ難い事実で、武道は頭を抱えた。指に触れるのは、いつもよりも短い髪の毛で、顔を上げる。商店街の硝子に映った自身の姿に、武道は愕然とした。
　あの少女に大切なものと言われて、真っ先に武道の頭に浮かんだのは弟の顔だった。だからこそ、この世界には弟がいないのではないかと思った。しかし、この世界で失われたのは、弟ではなかった。
　この世界で、志波武道は既に死んでいた。移動教室中にふざけて階段から足を滑らせて呆気なく死んだらしい。俺らしいと言えば俺らしい、まさに自業自得な死に方だった。
　弟が死んでなくて良かった。心からそう思う。俺にとっての一番は弟だから、きっと弟がいなくなってしまったら耐えられないから……消えたのが、俺で良かった。

　そう、俺で良かったんだよ。
　しかもさ、漫画みたいな死に方してさ、笑えるだろ？
　笑って良いんだよ、武道らしい馬鹿な死に方だって。
　……いや、笑うべきなんだよ、こんなオイシイ最期なんてなかなかないんだし。
　俺が消えたくらいで、何で皆そんな悲しそうなんだよ。
　なぁ、笑ってくれよ。笑い飛ばしてくれ。
　……笑えよ、頼むから……っ！

　周囲の重苦しい空気が溶け、目の前にかかっていた薄い幕が破れるような感覚に、武道は足元に落としていた視線を上げた。小淋の姿はどこにもなく、手には自身のスマホが握られている。慌ててアドレスを引っ張り出し弟にかければ、普段と同じ憎まれ口に安堵する。
　ほっと力を抜けば、無性に誰かに会いたくなってきた。誰かの笑顔が見たい、そう思い、歩き出す。
　それにしても、少女が武道に出した質問の答えは何だったのだろうか。昔大切だったのに、徐々に忘れて行ったもの……。一瞬浮かんだ、自分という答えに首を振る。
　まさか、な……。

このページにイラストを設定する