胸に沁みいる秋の空｜リアクション

胸に沁みいる秋の空

【桜色のにゃあ】見上げる空、滲む涙

　寝子島を離れ、神奈川県の地で椎井莉鳥は佇む。目は自然と周囲に向かう。
　緑の芝を囲むようにトラックがあった。視野を広げると木々が見える。森を切り拓いて作られた競技場に思えた。
　陸上部のユニフォームに身を包んだ莉鳥は最後の秋季陸上競技記録会に臨む。緊張した様子は微塵もない。他者と争う必要はなく、ただ自分の記録と真摯に向き合う。今までの努力を遺憾なく発揮できる場、それが記録会であった。
　内なる闘志を静かに燃やし、暫し過去を思い出す。
　今年の夏、インターハイで１ｍ７６ｃｍを跳んだ。もう一人、同じ記録で並ぶ者がいた。が、試技の数の差で競り勝ち、莉鳥は優勝を果たした。
　陸上競技で名を馳せた各大学は莉鳥の獲得に乗り出した。特待生の話が持ち上がる中、それら全てを断った。
　莉鳥は薬剤師を目指している。当然のことながら大学は薬学部を希望。その為の受験勉強に抜かりはない。模試の結果では木天蓼大学の薬学部の合格ラインを大きく超えていた。
　莉鳥は右の拳を固めた。やや表情が険しくなる。
「……反発ではないわ」
　元彼の言葉を否定するように言った。
　目は前を見据えた。運営の手によって走り高跳びの舞台が整った。
　記録会は間もなく始まる。

　競技は順調に進んだ。トラックでは選手が自己記録を更新しようと全力の走りを見せた。その熱意に魅せられた人々が一丸となって声援を送った。
　走り幅跳びでは大きな跳躍を成功させた選手が飛び跳ねて喜ぶ。見合った記録に盛大な拍手が沸き起こった。
　その中、走り高跳びが行われた。青い空に映える弧を各々が描いてバーを越えていく。
　バーは高さを上げた。力尽きるように脱落者が増えていく。残りは二人となり、最後は一人だけの挑戦となった。
　ユニフォームを脱いだ椎井莉鳥はバーの高さを目にした。息を整えてから助走に入る。斜めに切れ込むように走って跳んだ。天を穿つように手を伸ばし、バーの上で背を反らす。綺麗な弧を描いてマットに落ちた。
　青い空に浮かぶバーを眺める。自己記録に並ぶ１ｍ７６ｃｍを二度目で成功させた。
　バーの高さは上げられた。２ｃｍは小さく、途轍もなく大きかった。二度とも背中に触れてバーを落とした。
　最後の三回目に莉鳥は挑む。ユニフォームを脱ぐと後輩達の声が競技場に響き渡った。
「椎井先輩、ファイト！」
「カッコイイ先輩を見せてください！」
　悲鳴に近い声で叫ぶ後輩達に莉鳥は口元を引き締める。強い視線をバーに向けたまま、すっと右腕を上げて人差し指を立てた。
　カメラマンが望遠を活かし、何枚も写真を撮った。集まった記者達は瞼を忘れ、その瞬間に備えた。
　莉鳥はその場で軽く跳んだ。程よく肩の力を抜いて自然な呼吸を心がける。
　決意を目に秘めて助走に入った。無理な歩幅の調整はなく、自然に身体が持ち上がる。空に舞い上がるようにして跳んだ。青空に鮮烈な三日月を描き、マットに大の字に寝転がる。
　青い空を両断するバーが白く輝いていた。とても美しい物に触れて目から涙が零れた。
　巨大なうねりのような歓声が莉鳥を包み込む。最後の競技で自己記録を更新した。
　その事実を胸に莉鳥は泣いた。

　後日、陸上部で引退式が行われた。別れを惜しむ後輩達に囲まれた莉鳥は優しい言葉を掛けて全員を抱き締めた。その顔はとても晴れやかで新たな旅立ちに踏み出す者の強さを垣間見せた。

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