うららかなお陽さまの白色した花々の下を潜ったり、おっとりと温かい金色のお茶のような花びらを浴びてみたり。
　神秘的な森のような深紫色した花の香に酔いしれてみたり、優しい宵の入りの薄紅色の花々を仰いでみたり、深く赤い黄昏の花の下に微睡んでみたり。
　怪しい漆黒の花の色に驚いてみたり、蒼穹に溶けてしまうような花と鳥の詩に聞き惚れてみたり、清々しく心地よい朱緋色の花に囲まれて高らかに歌ってみたり。
　さまざまの冒険や探索、時々の休息や交流を経て、辿り着いたのは今までの花々が入り乱れて咲く百花の道。

「うわあ……！」
　頭上に咲き誇る白い百合に、可憐に揺れる空色のネモフィラに、ひとつひとつの花に朝凪の海の色した瞳を輝かせ、七夜 あおいが駆けて行く。
　不思議の花畑の中に大好きな女の子が消えてしまいそうな気がして、八神 修は思わず足を早めた。
「あおい」
「ん？」
　咄嗟に伸ばした手であおいの手を掴んでから、はたと気付く。急に手を取ってしまって、驚かせてしまっただろうか。
　そう思うけれど離すに離せず、
「迷子になるよ」
　冗談めかして自分より一回り以上は小さくて華奢な手を握ったまま、先を歩きだす。
「心配性ね、修君」
　くすくすと笑いながらも、あおいは繋いだ手を無理に解こうとはしなかった。そのことに胸を温かくしつつ、修はなんでもない風を装って花の道を行く。
　今まで単一の色の花々が咲いていた大地の様子が変化しているということは、もしかしたらこの不思議な旅の終わりが近づいているのかもしれない。
　そんな予感が、あった。
(旅か、夢か)
　どちらでも良いとは思う。道程に大きな危険は然程なく、それになにより、隣にはあおいが居てくれた。
(出来得るなら──)
　もう少しこの旅が続けばいいと願ってしまうのは、欲張りに過ぎるだろうか。

　色とりどりの花の道の果てには、妖精たちの町があった。
　丘の上、燃え上がるような真紅の花を戴いた百日紅の巨木を町の妖精たちは、
『お城だよ』
『花のお城』
『果ての城』
　と鈴を鳴らすような声で教えてくれた。
　お城には王さまと王妃さまがいて、夜になるとみんなで夜会を楽しむのだと。
『それより紫苑』
『これはどう？』
　お城と夜会のことよりなにより、妖精たちが今夢中なのは、花の道からふらりと現れた亜麻色の髪と苺色の瞳を持つ麗しい乙女。

　ミモザアカシアのテーブルに着いた彼女の前には、さまざまの花を棲家とする光珠の姿した妖精たちが持ち寄った食べ物に溢れている。
　甘く煮たミルク掛けの真っ赤な苺、花蜜を練り込んで薄く焼いたビスケット、冷たいクリームを添えた焼き林檎に百花から香を抽出したお茶。
「どれもとても美味しいです」
　花の迷路から花の町へと出た途端に妖精たちの熱烈な歓迎を受けても、巫部 紫苑は柔らかな微笑みを崩さない。甘やかな笑みで妖精たちに応じながら、供された食べ物を底なしとも思える食欲で平らげてゆく。
『すごい』
『紫苑、いっぱい食べる』
『すごい』

　町のほぼ真ん中、大きな円卓が設えられた広場から聞こえてくる賑やかな賞賛の声に、城山 水樹とヒュー・ヒューバートは顔を見合わせた。
　ほとんど同じ高さで水樹の漆黒の瞳とヒューの薄墨の瞳が重なる。
「……あ」
「っ……」
　瞳を重ね合わせたまま、ふたりは少年少女じみて頬に朱を上らせた。次いで、ふたり同時に唇に照れくさいような笑みを浮かべる。
「楽しそうね」
「そうだね」
　周囲に咲き乱れるどの花よりも鮮やかで美しい恋人の笑顔に穏やかな笑みを返しながら、ヒューはともすれば絶え間なく笑んでしまいそうになる口元を指で抑えた。
(……知っているのに)
　今は衣服に隠れている素肌の色までも。
　唇で触れたその白い肌がどれほど魅惑的な薄紅に染まるのかさえも。
　それでも、未だに目と目があっただけで互いに照れて赤くなってしまうのはどうしたものだろう。
(まるで学生の初恋だ)
　小さく吐き出した息の次に吸い込んだ空気は、むせるような花の香に満ちていた。
「どうかした？」
　一歩先に進んだ水樹が振り返って覗き込んでくる。
　何の躊躇いもない仕草で唇に当てた手を取られ、当然のように指を絡められ、ヒューはなんでもないよとまた笑った。
『なかよし？』
『こいびと？』
　繋いだふたりの手の上、ふわりひらりと花びらの色した光の珠が優しい風と共に降りてくる。
　光に霞んではっきりと姿の見えない妖精にからかい気味に声を掛けられ、水樹とヒューは顔を見合わせてまた顔を赤らめた。
「うん、仲良し」
「そう、恋人だ」
　ふたり同時に妖精たちに応じれば、互いの手を握る手にどちらからともなく力が籠もった。くすくすとくすぐったそうに笑いあうふたりの周りを、妖精たちが踊るように飛び回る。
『王さまと王妃さまみたいね』
『恋人のふたりはお城の夜会にどうぞ』
『旅人さんはみんな夜会にどうぞ』
『花の広間でワルツをどうぞ』
『虹色の蝶も現れるかも？』
『伝説の蝶かも？』
　舞い踊る花びらの如くたくさんの言葉を掛けられ、くるくる飛び回る光の珠に視線を奪われ、ヒューと水樹は目を丸くする。
『そうと決まれば』
『準備をしよう！』
　寝子島からの旅人たちをあちらこちらで迎えていた花の町にわあっと妖精たちの歓声があがった。妖精たちの声に合わせ、幾千の花びらが青空へと躍り上がる。


『夜会のドレスは星夜の色がいい』
『マントは月光の森の深い色かな』
『真珠で飾ったサッシュもいいね』
『マントの留具は花の宝石がいい』
　歌ったり笑ったりしながらも、妖精たちの手際は恐ろしく良かった。小さな体で、素晴らしい速度で、客人たちに夜会の準備を整えて行く。
『さあさあ、恋人さんたち、こっちこっち！』
　くすくす跳ねる妖精に招かれてヒューと水樹が、
『ほらほら、おいで！』
　群がる妖精たちに案内されて修とあおいが、
『お菓子はまたあとで！』
　楽しそうに笑う妖精に連れられて紫苑が、藤の花がカーテンのように垂れ下がる花棚の前へと通される。藤蔦を編んで作られた個室へ別々に通されたかと思えば、待っていたのはヤマネやトカゲや蜘蛛、旅人たちと同じほどの背丈した生き物たち。
『さあさあ』
『われらに』
『お任せを』
　陽気な彼らの手で採寸を受け、魔法のようにあっという間に作り出された正装とマントを着つけられ、
『ほら出来上がり！』
『まあうつくしい！』
　肉球の手に水かきのある手、いくつもの手に背中を押されて個室から出てみれば、いつのまにやら空は黄昏の桃色。
　黄金色に染めあげられた雲の縁の薄紅色を仰ぎ、青紫を濃くしてゆく空の色と、空を額縁のように飾るさまざまのかたちした花々を見回して、
「あれは、……」
　修は黄昏の空に聳える百日紅の大樹に瞳を奪われた。
　青空に燃えるような紅色の花を咲き誇らせていた大樹は、今、陽炎のようにゆらゆらとその姿を揺らがせている。かと思えば、花をつけた枝が風にしなるように大きく動き、自らそのかたちを変えてゆく。
　夕暮れの空が宵の色に染め上げられ桃色だった雲が濃紺の沈む頃、妖精たちの手で衣装を誂えられていた旅人たちが着替えを終えて藤棚の前に再び立つ頃、百日紅の大樹は大輪の花を幾千幾万と咲かせる牡丹の樹となっていた。
　艶やかな紅、慎ましやかな薄桃、可憐な薄黄、泰然たる白──それは、数多の天の羽衣で飾り立てたかのような王の居城。
『今宵は牡丹』
『今宵も華麗』
　妖精たちの言を耳に、ならばとヒューは瞬く。王の城は、日によってその姿を変えるのだろう。
「本当ね、とても綺麗」
　妖精たちに頷く水樹の声に振り向いて、ヒューは小さな息を零した。波打つ黒髪を深森のマントに揺らめかせ、夜色のドレスにその均整の取れた体を包み込ませた恋人の姿に視線を奪われる。

(カメラを持って来ていれば)
　カメラマンという職業病じみて思う。美しい人を美しい景色の中、写真にしておきたかった。かたちに残しておきたかった。
　けれど今手元に愛機はない。だからその代わり、ヒューは水樹を見つめる。瞼のシャッターを切るのも惜しんで、恋人の姿を瞳に焼き付ける。
『さあ、いざ！』
　光の珠のかたちした妖精のひとりが高らかに声を張れば、花の町から花の城へ、ふわふわと揺らいで光る妖精たちによって光の路がゆらりゆらりと形作られた。
『紫苑、しゅっぱーつ！』
『美味しいもの教えてあげる！』
　着替えのうちに仲良くなったもふもふのヤマネと冷たい鱗のカナヘビのエスコートを受け、紫苑は緋牡丹色の瞳をたおやかに細める。ゆったりとした足取りで、妖精たちの発する光をきらきらと反射させる花や葉を見仰ぎながら進み始める。
「行こう、修君！」
「ああ」
　待ちきれぬように弾む足取りで歩み始めるあおいの後を修も追う。妖精たちが作り出した夜会服の胸を飾る花型の留め具が、光を集めたように眩しい朝陽の色を煌めかせた。

　幾千の妖精たちとともに翠葉の段を登った先には、蔦を精巧に編み上げた美しい籠のような、大樹が幾百年の月日のうちに作り上げたような偉大な虚のような夜会の間があった。
　妖精たちの放つ光で照らし出された広間のこちら端では二十日鼠たちの楽団が水晶の楽器でワルツを奏で、あちらの端では大きな円卓に瑞々しい果物や焼き立てのお菓子や料理が並んでいる。慎ましやかなメイド服を纏ったナキウサギやフェネックたちが目立たぬ動きで飲み物や食べ物を給仕しているかと思えば、派手な衣装の小猿が道化じみた賑やかな動きでトンボを切る。
『紫苑！　梨のコンポート食べる？　クリーム盛る？』
『魚のパイ食べる？　苺のタルト食べる？』
　紫苑の食べっぷりに惚れた妖精たちに導かれ、紫苑が座るのはメイドたちがこれでもかと並べ立てた食べ物の皿のテーブルの前。
「もちろん、頂きます」
　ふんわりふわふわ、淑やかな笑みを浮かべる紫苑を囲むのは、わくわくと瞳を輝かせる動物たちだったり、野次馬気分でぴょんぴょん宙に弾む妖精たちだったり。
「梨のコンポートは爽やかな甘さと優しい食感で美味しいですね、添えられたクリームが甘さ控えめで梨の甘さを引き立てて……！」
　洗練されたフォークとナイフの動きながら、紅を引いたように血色の良い唇に次々と、休むことなく食べ物が運ばれてゆく。
「魚のパイのこのサクサク感は最高です、バターの香がハーブの香と混ざり合って魚の風味を倍増してくれますね」
　美味しい美味しいと何でも食べてくれる旅人の様子がよほど嬉しかったのか、厨房からコック帽を被ったひよこたちがわらわらと顔を出した。ピヨピヨありがとうと鳴くひよこたちに、紫苑はこちらこそと艶やかに微笑んで返す。
「ありがとうございます」

　ピヨピヨはしゃぐヒヨココックたちの声を聞きながら、ヒューは神妙な顔つきで水樹に手を差し伸べる。その背後には、さあ踊れさあ誘えと圧を掛ける妖精たち。
　広間の央、二十日鼠たちのワルツに合わせてくるくる踊るは、光の珠の妖精たちに栗鼠に蜥蜴、さまざまの小さな動物たち。
　お伽噺のような場面を視界の端に、ヒューは小さく深呼吸をする。上手くエスコートできる自信はあまりないけれど、
「一曲如何ですか、お姫さま」
「はい、喜んで」
　差し伸べた手を微笑んで取ってくれた水樹の顔が輝くほどに美しいことが、そうやって彼女を微笑ませられたのが自分であることが、もう十分に嬉しかった。
　音楽に合わせ、広間へと進み出る。手を取り合って初めはちょっぴりぎこちなく、そのうちに音に合わせたステップを踏み始める、どこまでも楽し気な恋人たちの笑顔に、ワルツの楽が軽やかに跳ねた。
　ますます華やぐ夜会の音楽と妖精や旅人たちの笑い声を背に、修が向き合うのは蜻蛉のような透明翅を緋色マントの背に生やした若々しい妖精の王。
『そのブローチ、素敵ね』
「王妃さまのドレスも素敵です」
　真珠色のドレスの背にアゲハ蝶の翅を生やした王妃とあっという間に仲良くなって話し込むあおいの声を傍らに聞きながら、
「俺たちは、伝説の蝶を探しています」
　修は単刀直入に切り込む。
『うん』
　王は穏やかな笑顔で頷いた。
『君たちのお陰で、どの花畑の子たちも楽しかったようだしね』
　ついておいで、とマントを翻して旅人たちを導くのは、広間の外。明り取りの窓から月の光ばかりが差し込む廊下に出た途端、広間の喧騒は遠くなった。
『皆、いるね』
　寝子島よりの旅人たちが揃ったことを確かめ、王は蜻蛉翅に月影を虹色に煌めかせながら進み始めた。
　重なり合う幕のような白牡丹の花びらを分けた廊下の果てにあったのは、夜の花畑。百合、スイートピー、カトレア──季節さえ問わず、さまざまの花が咲き乱れる花園を満たすのは、月の光より静かに麗しく輝く虹の光。
「まあ……」
　紫苑が緋色の瞳を瞠り、小さく感嘆の声をあげる。　

「綺麗……」
「……うん」
　声を震わせる水樹の手を、ヒューはそっと握りしめる。虹の色を湛える花々をきっと忘れぬようにとその瞳に映す。
「……いた」
　王の隣に並び、虹色の花園を見渡していた修の眼が、月の空に泳ぐ虹の翅を捉えた。そっと踏み出す修のあとを、あおいが息を殺して続く。
　ひらりふわり、月の光をさまざまの色に変えて跳ね返しては時にきらきらと輝く鱗粉を零すその蝶は、しばらく月夜の散歩を楽しんで後、気まぐれな女神にも似て地面へ優雅にその翅を休めた。
　煌めく光を揺らし、息づくように翅を動かす蝶の前、修はそっと立つ。ひとの動きにも怖じず、伝説の蝶はほんの僅かに透明な触覚を震わせるばかり。
　虹の色を写し取って尚も黒い蝶の瞳を見つめ、修は恭しくお辞儀をする。
「帰ろう、あおい」
　背後に立つあおいを呼び、手を差し伸べる。あおいと修が重ねた手で伝説の蝶の虹色の翅に触れた、その瞬間。
「……あら」
　静かに見守っていた紫苑の体が、ふわり、蝶のように宙へと浮かび上がった。
「お別れ、でしょうか」
　爪先が花の大地から離れても然程動じず、紫苑は虹色の花園を見下ろす。花園に立って手を振る妖精の王に淑やかに手を振り返す。そうするうちにも、体はふわふわと浮かび上がる。
　周りにも自分と同じように寝子島への帰還を──夢の世界から覚めるための路を辿って月夜に浮かび上がる人々を眺めるうちに、花の大地はどんどんと遠くなる。
　牡丹の花の王城が、そこから出てきてサヨナラと光を揺らす妖精たちが、ぴょんぴょんと跳ねる動物たちが、咲き乱れる幾千幾万の花々が、見る間に遠く遠くなってゆく。
「さようなら」
　マントとドレスの裾をひらり翻し、亜麻色の長い髪を艶やかに揺らし、紫苑は夢の世界に別れを告げる。
「とても楽しかったです」
　ね、と笑いかけるのは、あおいに修に、ヒューに水樹。夢の世界の旅の終わりを共にした寝子島の人々──