ねこの消えた日｜リアクション

ねこの消えた日

「ああー。行っちゃった■え」
　握の様子がおかしかった、何があったとどよめく寮生の中に、真辺伸幸もいた。こちらは文字の喪失を知っても動じず、実にのんきなものである。伸幸は多少の違和感を味わいつつも、フツウに支度をして、フツウにいつもの通学路を通って、フツウに学校に向かうのだった。通りを横切る猫を見かけて、声をかける。
「やあ、■■さーん……」
呼ばれた猫は、こちらを見もせず歩いて行ってしまった。
「ぬー……やっぱり、朝のあれ、二人とも家出中みたいだ■ぇ」
伸幸はゆったり、のんびりと歩きながら学校へと向かう。途中の標識や看板は文字が塗り消されたようになくなっていて、猫に呼びかけようとすればやはりまた声は肝心なところだけ消えてしまう。
「そうかあ。文字さん？　はいろんなと■ろに出ずっぱりだったんだ■ぇ」
穴の多さに、『ね』と『こ』――この時の伸幸には、文字の正体は思い至らないわけだが――の出番がいかに多かったかに気づく。普段の会話の中でも、きっと自分も、友人も、島の人々も、さぞ頻繁に文字たちを呼び出し、会話に使っていたのだろう。
「お出かけしたくなっても、不思議じゃないもの■ぇ。俺だって文字さんみたいに大忙しだったら休みたくなっちゃうし」
首を傾げ、名前の思い浮かばぬ二つの文字を思いやる。
「ああ、でもちょーっと不便で……」
ずっと先に寮を飛び出していったはずの利平が、まだ通学路の途中にいた。文字を失った言葉の意味、そしてそれに関わる目的を失い始めていた利平は、自分と同じ制服姿の寝子高生を見つけては、すがりつくように問いかけ続けている。
「おおっ、その制服だ！　頼む、俺の行く先を教えてくれ！」
「おいなんだよ！」
「■めだ、■めを送ってもらえなきゃ生きていけ■え。俺の■めの危機なんだ、■う■うに行かなきゃいけ■えんだよっ！」
「ちょっとやめてよ■！　みんなが行く方に進めばいいでしょ!?」
戸惑い慌てる利平の方に、ぽんと暖かい手の平が乗せられた。
「握さーん。握さん」
「お、おう。真辺……」
同寮、同学年の伸幸に声をかけられ、利平は若干落ち着きを取り戻す。
「文字さんがいなくなってあわあわしてるのはみんな一緒よー。名前は見えないけど、行き先はなくなってないみたいだから、行ってみましょー？」
「ああ、そうするか」
足は通学の道筋を覚えていた。景色も昨日までと変わりない。同じ制服を着た、同じぐらいの年頃の男女が学校へと向かっていた。門があり（銘版は不気味な穴が二つ開いていたが）、教室があり、生徒のほかに先生がいる。
（ああ思い出せねえ、というか頭に浮かんでこねえ……ここはなんていう場所だったっけ？）
悶々とする利平の脇で、伸幸は教科書や本を取り出し、ぱらぱらとめくりながら歩く。足りない音を補うように、しぐさはぱたぱたと大きめだ。
「おおー！　見てみて、見事に虫食いさんなのよー……」
「うおおっ……なんて■った！」
本をのぞき込んだ利平の顔がこわばる。
「なくなった文字さん、いったいどんな名前だったのかしら。■のままじゃだんだん存在が薄れてきて、曖昧になって……とても大切だった気がするけど思い出せない、夢みたいに思えてきて……」
「そうなんだよ。文字が抜けた部分の意味まで忘れちまいそうで気持ち悪いんだ」
「完璧に忘れちゃう前に戻ってきてほしいなぁとかー」
「そう、思うよな……」
がっくりと肩を落とす利平の背中を、伸幸がぽんぽんと叩いてなぐさめてやるのだった。